【60年前の横浜中華街も】昭和33年の横浜の街並みなどを捉えたカラー映像

2016/1/29 20:23 服部淳 服部淳


どうも服部です。昭和の動画を紐解いていくシリーズ、今回は横浜市のYouTube公式チャンネルにアップされている「開港百年記念ヨコハマ」という動画を紹介していきます。


横浜が開港したのは、1859年(安政6年)7月1日(旧暦では6月2日)。それから100年目(100周年ではない)を記念して1958年(昭和33年)5月10日から6月2日にかけて開催された「開港百年祭」と横浜の歴史をまとめたフィルムです。

1958年は現在より58年前、退色していますがカラー映像です(色素が退色していく順は、イエロー《黄系》とシアン《青系》が早く、マゼンタ《赤系》が最後となるようで、赤系の色が他より濃く残っています)。では、早速見ていきましょう。
※動画はページ下部にあります。


まずは横浜の歴史から。横浜が開港されたのは、ご存じアメリカのペリー(当時はペルリと呼ばれていた)率いる黒船が、鎖国中だった日本に開国を迫り、徳川幕府が受け入れたことに始まります。人口350人、家屋数100戸ばかりの漁村だった横浜(横浜村)に港が建設されました。


開港されると、全国から商人らが集り店を構え、わずか1年後には繁華な町になったのだそう。


開港30周年の1889年(明治22年)には、人口12万人の横浜市が誕生。面積は横浜港周辺の5.4 km²にすぎなかったようです。


そこから近隣の町村を次々と併合していき、1939年(昭和14年)の第6次市域拡張で、400.97km²まで拡大します。




見事に発展していった横浜ですが、そこに苦難が襲いかかります。

1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災です。東京を中心に起きた震災のように思われがちですが、震源は神奈川県内(詳細は諸説あり)であり、全壊した住宅は東京のそれよりはるかに多かったようです。


「開港以来の60年にわたる発展の跡を一瞬にして瓦礫の山と化し、全市の90%を文字通りの焼け野が原にしてしまったのです」とナレーションは語ります。

上の画像の背後に見える塔は、現在も残る、1917年(大正6年)建造の「横浜市開港記念会館」でしょうか。


そんな大震災からもすぐに復旧を遂げた横浜でしたが……、


大震災から22年後の1945年(昭和20年)には、5月29日の横浜大空襲をはじめ、アメリカ軍による無差別爆撃により再び大きな被害を受けます。上空からの映像で少しわかりにくいですが、恐らくぎっしりと建物が建ち並んでいたでしょう街がスカスカになっています。


「それから10年、明るい平和は三たび、この都市を立ち上がらせ、国際貿易港・横浜を立派に甦らせたのです」とナレーション。横浜に限ったことではありませんが、わずか二十数年の間に街が2度も壊滅しつつも、しっかりと復興させてきた当時の方々には感服します。


上の画像にも映っていますが、屋上に塔が立つ建物は、こちらも現存する1934年(昭和9年)建造の「横浜税関本関庁舎」のようです。


歴史紹介は終わり、現在(昭和30年初頭)の横浜案内に移ります。

「メリケン波止場の俗称で親しまれている大さん橋では」とナレーター。「メリケン波止場」は神戸港じゃないの?と思ってしまいますが、横浜の大さん橋も1970年頃まではそう呼ばれていたようです。


市街に映像が変わると、先ほど関東大震災後で被災した姿が登場した「横浜市開港記念会館」が映ります(屋根の部分は1989年《平成元年》に復元)。


話の流れから「横浜銀行」の行内が映ります。窓口の仕切りが、なんだか懐かしいです。


現在もほとんど変わらない、「ホテルニューグランド」本館。終戦後、厚木飛行場に降り立った米軍・マッカーサー元帥が真っ先に向かったホテルとしても知られています。ホテルニューグランドのHPによると、マッカーサーがこの宿に泊まるのはそれが初めてではなく、1937年(昭和12年)に新婚旅行として訪日した際にも宿泊した記録があるのだそう。


こちらは、横浜港を望む同ホテルのレストランと思われます。


ホテルの向かいにある山下公園。前述のホテルHPによると、山下公園は関東大震災で出た瓦礫を埋めたててできたそうです。

その後、外人墓地(横浜外国人墓地)、室町・桃山時代の建造物が散在する「三溪園」、国宝指定の書物が保管されている「金沢文庫」など、現在もほとんど変わらないと思われる市内の名所が紹介されていきます。


「各国人でにぎわう繁華街は」というナレーションと共に「イセザキ町3」の入口のゲート(入口のゲートについては「はまれぽ.com」に詳しく紹介されていましたので、興味のある方はどうぞ)が映ります。伊勢佐木町は明治の初期より成立し、大正時代には日本屈指の大繁華街として知られた街です。




鮮明ではありませんが、なるほど外国人らしき姿がちらほらと。


続いては「横浜中華街」の入口ゲート、「牌楼門」が映し出されます。「南京(なんきん)町」と呼ばれていたこの街ですが(ナレーションでは「チャイナタウン」と紹介しています)、1955年(昭和30年)にこのゲートが建てられ、そこに「中華街」と書かれていることから、次第に「中華街」と呼ばれるようになったのだそう。同門は1989年(平成元年)に建替えられています。


奥に見える看板は、現在も建物がそのままの「中華料理 華勝楼」のものでしょうか。


今はなき電信柱がずらりと並んでいるのと(現在は代わりに街路樹が)、道が石畳でないことを除けば、それほど変わっていない気もします。


横浜の街案内は以上で終わり、ここから「市が誇る産業」の案内となります。ひとつ目は高度経済成長期の花形産業だった造船業から。三菱日本重工業(現・三菱重工業)横浜造船所です。

続いて「東京芝浦電気(現・東芝)」「古河電気工業」「日東化学(後に三菱レイヨンと合併」と、各社とも詳細に事業内容が説明されていきます。


「横浜の産業で忘れてならないものに麒麟麦酒(キリンビール)があります」とナレーション。日本でのビール醸造の発祥は、横浜にあった麒麟麦酒の前身である「スプリング・バレー・ブルワリー」という会社によるものでした。映像では現在(昭和30年代)の工場の様子が映されます。


詳細には見えませんが、ラベルはこんな感じです。


「輸出食品のもう一つに、日本が生んだ世界の調味料、味の素があります」と、工場が映し出されます。ブリキ缶入りの製品のようです。

ちなみに、この映像の年である1958年(昭和33)年7月に、「味の素」の振り仮名が「ぢ」から「じ」に変更になったのだそうです(味の素HPより)。


大工場で作られる製品以外としては、スカーフなどの柄付け作業や、造花、日本人形作りなど、手先が器用な日本人ならではの産業も紹介されます。


そしていよいよ「開港百年祭」の模様の紹介です。外国人の姿も多く見られます。


今生天皇(当時皇太子)によるお言葉もありました。




そして「国際仮装行列」と打上げ花火の模様をもって、映像は終了します。



現代に生きる私たちにとって興味深い箇所をかいつまんで紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか? お時間が許せば、ぜひ映像の方もご覧いただけると、また違った発見があるかもしれません。引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)

※参考文献:開港150周年記念 横浜 歴史と文化(有隣堂)



【動画】『開港百年記念ヨコハマ』


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