『道路が危険すぎ』交通戦争と呼ばれた昭和30年代の日常まとめ6
どうも、服部です。映画「ALWAYS 三丁目の夕日」や、その続編「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の頃は本当に良い時代だったのか、当時のニュース映像で検証した「昭和30年代の日常まとめ」シリーズの第6弾です。
ちなみにタイトルにある「交通戦争」とは、Wikipediaいわく「昭和30年代(1955年 - 1964年)以降交通事故死者数の水準が、日清戦争での日本側の戦死者(2年間で1万7282人)を上回る勢いで増加したことから、この状況は一種の「戦争状態」であるとして付けられた名称」なのだそうです。
戦時下の戦死者数を上回るとは……まさに異常事態です。
●近道のために命は懸ける、でも通行料は払いたくない!?(昭和33年)
「大東京の癌といえば道路の酷さ。毎日、どこかで掘り返しています」のナレーションで動画は始まります。その通りに穴がいくつも開いていて、車(オート三輪)は避けて走行していきます。
シャベルで道路を掘る工事の人。舗装されていないので、機械は不要なようです。だけど日が暮れたら、穴に気付かずに落ちてしまう車や人、自転車もいたんじゃないでしょうか。
未舗装の道に雨が降れば、このようなぬかるみに。白っぽい靴を履いた女性は、とても気にしながら歩いています。
道路の下では地下鉄工事が行われている影響で……。 都内電車(都電)は、ふらつきながら走っています(動画を見ると、かなりグラグラしています)。そんな浅いところで工事してるんでしょうか?
危なすぎます。
以前の記事「『これ本当に日本?』と驚く昭和30年代の日常まとめ1 」では、昭和30年当時の箱根の道路は未舗装だったと紹介しましたが、昭和33年になると片側通行にして舗装工事が始まっていました。
お陰で、車はいつも待ちぼうけだったそうです。
大阪と京都を結ぶ新しくできた「鳥飼大橋」は、橋を渡るのは有料とのことで……。
この通りガラガラです。有料道路という概念が定着していなかった時代。なぜ橋を渡るだけなのにお金を払わなくてはならないんだ、ということなんでしょうか。
北海道の奥地ともなると、障害物競走よろしく、綱渡りです。
さらに波を被ったり……。
って、道なき道を東京の道路事情などと並べて比較しても仕方ないような気もしますが。
所変わって山形県の酒田駅~余目駅間の鉄道橋では、
鉄道橋が人々の移動にも使われていました。
汽車に汽笛を鳴らされ、線路脇でやり過ごす人たち。命懸けすぎます。
有料だからと立派な橋が使われないところがある一方で、危険を顧みずに近道だからと鉄道橋を渡る人々もいた時代だったようです。
●交通事故死者数は現代の約4倍。道路はまさに戦場だった(昭和36年)
こちらは静岡県が配信している昭和36年の「赤信号」というタイトルの動画です。相変わらず、オドロオドロシイ書体が使われています。
事故を起こした大型トラックです。事故の原因は運転手の徐行違反やスピードの出し過ぎ、追い越し違反によるものが多かったそう。これは現在でも大きくは変わらないと思いますが……。
事故車の中はこんなに潰れています。現代の車より安全性はずっと低かったので、事故を起こせば死亡率はかなり高かったのです。
交通事故の悲劇は年々激増していたのだそうですが、この動画ではその原因をいろいろと挙げていきます。
急激な自動車の増加がそのひとつです。観光地で有名な熱海では、休日にもなると東海道(国道1号線)は驚くばかりの渋滞。1万5、6千台が狭い道にひしめいているのだそうです。せっかくの休日も身動きができません。
信号代わりにお巡りさんが手信号を出しているところも、まだたくさんあったようです。
なぜ静岡県の道路がこんなに混雑しているのか、大きく4つの理由が挙げられています。
1.東京~名古屋を結ぶ大動脈、東海道が県内に181キロも通っていること。この当時はまだ「東名高速道路」はできていません。日本全国の交通事故のうち、約35%が東海道で起こっていたのだそうです。
2.県内を流れる天龍川や大井川から砂利を採取・運搬する「砂利トラ」と呼ばれるトラックが、東海道を1日延べ2万台が行き来していたこと。
3.レジャーブームで、観光地の伊豆には休日ともなれば平日の7~8倍もの車が集まってくること。
4.東海道が町の中心を通っていること。東京から名古屋へ向かう車も、町の中心を素通りしなくてはならなかったのです。
また、踏切事故も年々増えるばかりだったそうです。原因は運転手が一時停止を怠る場合がほとんどでしたが、無人踏切が多くあるなど、設備面にも一因あったようです。
静岡県内の事故件数は、昭和31年の2821件から昭和35年には約6倍の16488件に激増。死者は576人、負傷者は11431人でした。
2010年の統計では、静岡県内の交通事故死者は165人、同負傷者は47915人。車の台数が現在のほうが圧倒的に多いので、いかに交通事故死亡率が高かったかが分かります。
国道沿いの豆腐屋さんは、暴走するトラックに何度も突っ込まれたため、店の前にコンクリートのバリケードを設置したのだそう。
交通マナーにもいろいろと問題があったようです。こちらは、バス停の前に駐車している車。バスの乗り降りの妨げになります。
パチンコ屋さんの前には、自転車が群がって駐輪しています。これは今でも見る光景かも。。。
駐車違反の車には、お巡りさんが座席にチョークで書き込んでいます。当時は駐車の設備なんかほとんどなかったようですから、反面仕方ないようにも思えます。
子供たちへの交通訓練は始まっていたようですが、大人たちが横断歩道でないところを平気で渡っているようでは意味も半減です。
浜松のオートレースに向かう人々。車もバイクも自転車も、道一杯に走っています。危険すぎです。
ちなみに、当時のウインカーはこのような短い棒が上がったり下がったりして知らせるものもありました。実物は見たことないですが、見落としそうですね。
●駐車場にお金を払うという考えはまだまだ定着せず(昭和37年)
東京のビル街には無料駐車場があったようなんですが……。
ここを利用する人は出勤時間よりずっと早い朝8時頃から集まってくるようです。
出勤時間になるまで、髭をそるなどして時間を潰しています。なぜなら、ちょっと遅れると、もう止める場所はないからです。まあ、それはそうでしょうね。無料なんですから。
お昼にもなれば、有料のパーキングメーターも一杯になるようです。
駐車禁止の看板が、やけくそのように乱立されています。ナレーションいわく「こう多くては、効き目はあまりないようです」。
大阪の問屋街では、人間が通るのもやっとなほどに、道路の両脇に車が駐車しています。
そのためか、手軽な輪タク(自転車のタクシー)もリバイバルしたのだそうです。
再び東京に戻り、一番駐車場が探しにくい銀座の近くに地下駐車場ができたのですが……。
この通りガラガラです。
ナレーションは、原因はその料金の高さにあると指摘します。看板を見てみると、朝9時から夜9時まで30分50円と書いてあります。このニュース映像では出てきませんが、路上のパーキングメーターが15分10円(昭和33年当時)なので、約2.5倍です。無料で停められるところがあるのに、なかなか利用しにくいですね。
さらに、そのパーキングメーターも故障がちなのだそうです。料金箱を開けてみると……。
こんな有様。針金をグルグル巻にして10円玉サイズにしたようなものから、10円玉サイズのカギや缶バッジのようなものもいくつか混じっています。これが故障の原因なのでは!? 現代のように、小銭とそうでないものの区別がしっかりできなかったんでしょうね。
駐車違反の取り締りも行われるには行われていましたが、このようなシールを貼るだけでは、簡単にはがされてしまうのでは、と心配してしまいます。
●こんなバス通勤が週6日とか厳しすぎ(昭和39年)
午前8時のとある東京の光景です。1日100万人以上の客を運ぶ都バス(東京都営バス)のようです。バス停に大勢の客が待っています。1台や2台ではとても乗れそうにない人数です。
1区間15円が20円に値上がりしたばかりの頃のようです(2014年の運賃は通常現金払いで210円)。この値上げで安全とスピードも向上するのならよいのですが。
乗務員さんが押しても乗れないような状態のようで、結局最後に乗り込もうとした客はあきらめました。
次のバス亭にもお客さんが大勢待っていますが、満員のため通過していくようです。
ようやく通過せずに止まるバスが来ました。我先にと乗り込もうとする客たち。
こう何台も待たされたら学校や職場に遅れてしまうし、みな必死です。車掌さんは「ドア閉まらないと発車できませんから1台待ってくれませんか」と言いますが、そうは悠長にもしてられません。
道路はそのままなのに、車は増える一方。バスはバスで渋滞にドップリはまってます。
バスの台数を増やせばいいのではと思いますが、人手不足で増車ができないのでそうです。さらに、このようにダイヤが乱れては売上もサッパリだとか。負のスパイラルです。
毎日こんな通勤ラッシュをこなしていれば、そりゃ表情も険しくなるというものです。しかも、この当時は週休1日がデフォルト。本当にお疲れ様です。
いかがでしたか? 駆け足で昭和30年代の道路事情を振り返ってみました。増える交通量に対して、道路も駐車場も、そして安全マナーも追い付いていない大変な時代だったんですね。つくづく今の道路って安全になったんだな、と思い知らされます。
(服部淳@編集ライター、脚本家)
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