西郷輝彦、宝田明、三宅一生、オリビア・ニュートン・ジョン、アントニオ猪木、渡辺徹まで時代を変えた人たち。2022年メモリアル
宝田明
(1934年4月29日~2022年3月14日)
(宝田明 イラストby龍女)
宝田明の初主演映画はあの名作『ゴジラ』(1954年)である。
もし映画秘宝の愛読者なら特撮映画の出演者として語りたいだろう。
しかし筆者は今はオンラインで復活した集英社のROADSHOWの愛読者だったので、別の側面を語りたい。
宝田明の古巣の東宝は「東京宝塚株式会社」とのフルネームからも分るように映画会社だけで無く、宝塚と言う日本有数のミュージカル劇団も抱えるグループ企業だ。
映画産業が衰退した70年代に入ると、ミュージカル俳優として東宝が主催したブロードウェイミュージカルの日本版に次々と出演した。
日本の植民地下の朝鮮半島で生れ、父親が鉄道技師で南満州鉄道に転勤した関係で満州に移って、幼少期を過ごした。
その当時は軍国少年だったという。
1945年の日本の敗戦により、侵攻してきたソ連兵に狙撃されて右腹を負傷したが、手術で摘出されて助かった。
必死で靴磨きなどで食いつなぎながら、日本に帰国する。
その環境に育ったため、日本語の他に中国語と英語に堪能である。
映画全盛期の頃、東宝の喜劇の主演俳優で、その前は満州でアナウンサーをしていた先輩の森繁久彌(1913~2009)と待ち時間に中国語で猥談をしていたらしい。
筆者が小学生だった頃は、年に一度放送されるミスコンテストの最高峰の一つ
ミス・ユニバース日本代表選出大会(朝日放送)の司会を務めていた。
当時、ミスコンの司会と言えば、宝田明と
ミス・インターナショナルの岡田眞澄(1935~2006)であった。
世代もほぼ一緒で、東宝の演劇養成所では同期だったという。
二人の共通点は、大陸出身で、トリリンガルである。
女性のエスコートが自然に身についている所も共通していた。
宝田明は、ミス・ユニバース日本代表で世界一になった児島明子と結婚し離婚した。
バラエティ番組にも出演している。
代表作はフジテレビの深夜番組『アメリカの夜』(1991年10月~1992年3月)。
フランソワ・トリュフォーの映画『映画に愛をこめて アメリカの夜』(1973年)からタイトルを貰った。
筆者は毎週楽しみに観ていて、これで映画の技術の名前を覚えた。
晩年も役に恵まれていた。
朝ドラの『カーネーション』(2011年)では、ヒロイン小原糸子(尾野真千子)の母方の祖父・松坂清三郎を演じたりと、その年齢にあった役にオファーされ続けた。
遺作となった映画『世の中にたえて桜のなかりせば』ではエグゼグティヴ・プロデューサーと主役を兼ねている。
満州からの引き上げ体験があまりに過酷だったので、比較的若い頃から反戦の姿勢を出していたが、近年は危機感からますますその主張が大きくなった。
宝田明少年のような経験は、これからの日本の若者にはいらない。
藤子不二雄A(我孫子素雄)
(1934年3月10日~2022年4月7日)
(藤子不二雄A イラストby龍女)
筆者を含めて70年代に生れた日本人は確実に藤子不二雄のアニメで育っているはずである。
藤子不二雄とは、富山県出身で小学校時代からの幼なじみ藤本弘(1933~1996)との共同ペンネームである。
氷見市の曹洞宗の寺院の住職の長男として生れる。
父が亡くなり、引っ越し先の高岡市の小学校で出逢ったのが、藤本弘だ。
転校生といじめられっ子な二人の小学生は、漫画好きで意気投合した。
高校在学中の1951年から二人は漫画家デビューしたが、我孫子は卒業後伯父が務める富山新聞社で働いた。
藤本は就職したがすぐに退社し漫画家1本に決めていた。
我孫子は1954年に二人で上京するのをきっかけに苦悩の末、プロ1本で勝負することを決断した。
手塚治虫が借りていたトキワ荘の2階14号室が空いた。
二人は尊敬している手塚治虫の部屋に引っ越しをすることになった。
空いた部屋を借りても良いと、雑誌『漫画少年』を刊行する学童社の編集者から話があったからだ。
『オバケのQ太郎』(週刊少年サンデー連載は1964~1966)まで共同制作だった。
これ以降はそれぞれの得意ジャンルで作品を書き分けていった。
1987年にコンビ解消するまで名義は藤子不二雄のままであった。
藤子不二雄Aとしての代表作は『忍者ハットリ君』『怪物くん』『プロゴルファー猿』『魔太郞がくる!!』『笑ゥせぇるすまん』。
そして自伝漫画と言うジャンルの最高傑作の一つ『まんが道』である。
尊敬する手塚治虫のライフワークは『火の鳥』だったが、藤子不二雄Aのライフワークは『まんが道』だった。
手塚治虫や藤子・F・不二雄(藤本弘)と違って、漫画をストイックに描き続けたタイプでは無い。
ゴルフや麻雀で遊んだりして、大人の遊びも身につけていたのが良かったのか、手塚や藤本が60代前半で癌で倒れてしまったのに対して20年以上長生きした。
その理由は休み方が上手かったのと、僧侶の家の出で、粗食でバランスの良い食事をとっていたのが幸いしたのかもしれない。
なんとか、まんが道は一応の完結を見ることが出来たからだ。
(1934年4月29日~2022年3月14日)
(宝田明 イラストby龍女)
宝田明の初主演映画はあの名作『ゴジラ』(1954年)である。
もし映画秘宝の愛読者なら特撮映画の出演者として語りたいだろう。
しかし筆者は今はオンラインで復活した集英社のROADSHOWの愛読者だったので、別の側面を語りたい。
宝田明の古巣の東宝は「東京宝塚株式会社」とのフルネームからも分るように映画会社だけで無く、宝塚と言う日本有数のミュージカル劇団も抱えるグループ企業だ。
映画産業が衰退した70年代に入ると、ミュージカル俳優として東宝が主催したブロードウェイミュージカルの日本版に次々と出演した。
日本の植民地下の朝鮮半島で生れ、父親が鉄道技師で南満州鉄道に転勤した関係で満州に移って、幼少期を過ごした。
その当時は軍国少年だったという。
1945年の日本の敗戦により、侵攻してきたソ連兵に狙撃されて右腹を負傷したが、手術で摘出されて助かった。
必死で靴磨きなどで食いつなぎながら、日本に帰国する。
その環境に育ったため、日本語の他に中国語と英語に堪能である。
映画全盛期の頃、東宝の喜劇の主演俳優で、その前は満州でアナウンサーをしていた先輩の森繁久彌(1913~2009)と待ち時間に中国語で猥談をしていたらしい。
筆者が小学生だった頃は、年に一度放送されるミスコンテストの最高峰の一つ
ミス・ユニバース日本代表選出大会(朝日放送)の司会を務めていた。
当時、ミスコンの司会と言えば、宝田明と
ミス・インターナショナルの岡田眞澄(1935~2006)であった。
世代もほぼ一緒で、東宝の演劇養成所では同期だったという。
二人の共通点は、大陸出身で、トリリンガルである。
女性のエスコートが自然に身についている所も共通していた。
宝田明は、ミス・ユニバース日本代表で世界一になった児島明子と結婚し離婚した。
バラエティ番組にも出演している。
代表作はフジテレビの深夜番組『アメリカの夜』(1991年10月~1992年3月)。
フランソワ・トリュフォーの映画『映画に愛をこめて アメリカの夜』(1973年)からタイトルを貰った。
筆者は毎週楽しみに観ていて、これで映画の技術の名前を覚えた。
晩年も役に恵まれていた。
朝ドラの『カーネーション』(2011年)では、ヒロイン小原糸子(尾野真千子)の母方の祖父・松坂清三郎を演じたりと、その年齢にあった役にオファーされ続けた。
遺作となった映画『世の中にたえて桜のなかりせば』ではエグゼグティヴ・プロデューサーと主役を兼ねている。
満州からの引き上げ体験があまりに過酷だったので、比較的若い頃から反戦の姿勢を出していたが、近年は危機感からますますその主張が大きくなった。
宝田明少年のような経験は、これからの日本の若者にはいらない。
藤子不二雄A(我孫子素雄)
(1934年3月10日~2022年4月7日)
(藤子不二雄A イラストby龍女)
筆者を含めて70年代に生れた日本人は確実に藤子不二雄のアニメで育っているはずである。
藤子不二雄とは、富山県出身で小学校時代からの幼なじみ藤本弘(1933~1996)との共同ペンネームである。
氷見市の曹洞宗の寺院の住職の長男として生れる。
父が亡くなり、引っ越し先の高岡市の小学校で出逢ったのが、藤本弘だ。
転校生といじめられっ子な二人の小学生は、漫画好きで意気投合した。
高校在学中の1951年から二人は漫画家デビューしたが、我孫子は卒業後伯父が務める富山新聞社で働いた。
藤本は就職したがすぐに退社し漫画家1本に決めていた。
我孫子は1954年に二人で上京するのをきっかけに苦悩の末、プロ1本で勝負することを決断した。
手塚治虫が借りていたトキワ荘の2階14号室が空いた。
二人は尊敬している手塚治虫の部屋に引っ越しをすることになった。
空いた部屋を借りても良いと、雑誌『漫画少年』を刊行する学童社の編集者から話があったからだ。
『オバケのQ太郎』(週刊少年サンデー連載は1964~1966)まで共同制作だった。
これ以降はそれぞれの得意ジャンルで作品を書き分けていった。
1987年にコンビ解消するまで名義は藤子不二雄のままであった。
藤子不二雄Aとしての代表作は『忍者ハットリ君』『怪物くん』『プロゴルファー猿』『魔太郞がくる!!』『笑ゥせぇるすまん』。
そして自伝漫画と言うジャンルの最高傑作の一つ『まんが道』である。
尊敬する手塚治虫のライフワークは『火の鳥』だったが、藤子不二雄Aのライフワークは『まんが道』だった。
手塚治虫や藤子・F・不二雄(藤本弘)と違って、漫画をストイックに描き続けたタイプでは無い。
ゴルフや麻雀で遊んだりして、大人の遊びも身につけていたのが良かったのか、手塚や藤本が60代前半で癌で倒れてしまったのに対して20年以上長生きした。
その理由は休み方が上手かったのと、僧侶の家の出で、粗食でバランスの良い食事をとっていたのが幸いしたのかもしれない。
なんとか、まんが道は一応の完結を見ることが出来たからだ。