高橋幸宏、坂本龍一、高見のっぽ、松本零士、ティナ・ターナー、上岡龍太郎、平岩弓枝...2023年上半期メモリアル。七人のエンターテイナーを弔う

2023/7/7 17:15 龍女 龍女

高橋幸宏
(1952年6月6日~2023年1月11日)


(高橋幸宏 イラストby龍女)

坂本龍一
(1952年1月17日~2023年3月28日)


(坂本龍一 イラストby龍女)


1978年に結成、1983年に解散し、その後は断続的に再結成された
日本発のロックバンドで最も成功した三人組。
それがYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)である。

YMOはテクノバンドではないかとツッコみたくなる人もいるかもしれない。
テクノとは、シンセサイザーを用いたダンス音楽のジャンルである。
踊れる意味では、ロックの前身の「ロックンロール」の一種とも言えるのである。
「ロック」とは音楽ジャンルのくくりとしては
日本における「歌謡曲」「J-POP」位の広い範囲を示す言葉だと筆者の場合は解釈しているので、その文脈で捉えて欲しい。
「ロック」の中には踊れなかったり、更に意味深な歌詞がついたりしている。
多様性を持ち始めた60年代後半に進化した音楽ジャンルなのである。


メンバー全員がYMOとして集結する前から、それぞれの日本のロックシーンで活躍していたスタジオミュージシャンでもあった。

細野晴臣は立教大学社会学部観光学科卒、「はっぴいえんど」を経てソロ活動中。

高橋幸宏は武蔵野美術大学デザイン科を中退している。
「サディスティック・ミカ・バンド」の2代目ドラマー(初代はつのだ☆ひろ)として1975年に解散した(バンド自体はその後断続的再結成を繰り返しその度に参加)。
高橋幸宏の兄は、中学生の荒井由実(松任谷由実)が追っかけをしていたバンド、ザ・フィンガーズ(1962~1969)のギター担当で、後に音楽プロデューサーになった
高橋信之(1946年7月15日生れ)である。
自宅にユーミンが遊びに来たことが何度もあるそうだ。

坂本龍一は東京藝術大学作曲科、大学院まで行っている。
学生時代から、スタジオミュージシャンとして活動していた。
坂本龍一と高橋幸宏は、坂本が大学院在学時に出会っている。
坂本の別名となった「教授」は、高橋幸宏が命名したあだ名から来ている。
イメージとして大学で研究者になるような人が選ぶ進学先が大学院であろう。
研究者の頂点と言えば、「教授」である。

元々坂本龍一は理屈っぽい人にありがちな服装には無頓着な傾向を持っていたそうだ。
高橋幸宏がYMOの衣装デザインを担当するくらいに技術があった影響もあって、YMO以降はオシャレに目覚めたようだ。

この三人の活動は音楽だけに留まらなかった。
YMOが大人気の頃は漫才ブームの頃と重なっていて、トリオ・ザ・テクノとして漫才を披露するように笑いとのコラボも積極的に行っていた。
今も残っているコラボ作品が『スネークマンショー』(桑原茂一・小林克也・伊武雅刀のユニット)である。
坂本龍一がダウンタウンの二人が扮したGEISHA GIRLS(1994~1996)のプロデュースをしたのもその流れである。
高橋幸宏も、コント番組『竹中直人の恋のバカンス』(1994年7月~1995年1月)の「流しな二人」でチャーリー・ボブ彦(竹中直人)の相棒、流しのドラマーのジャッキー・テル彦としてゲスト出演していた。


2014年に坂本龍一が中咽頭ガンを公表していたので、多くの人は坂本龍一の行く末を心配していた。
その前にYMOのメンバーで一番若い高橋幸宏が先に死んでしまったのでビックリしてしまった。

YMOはライブを行うときは、三人が中心だったが、いわゆる3ピースバンドのような最低限の楽器で演奏するという形ではなく、サポートメンバーもその都度参加する「ユニット」と呼ばれる新しい概念を日本に持ち込んだ音楽集団である。
このコンセプトの影響を一番顕著に受けたグループが小室哲哉・宇都宮隆・木根尚登の「TM NETWORK」である。
それ以外でも「テクノ」という音楽ジャンルの日本の先駆けのグループなので、YMOに影響を受けたミュージシャンは数多い。

ちなみに筆者のYMOとの最初の接点は、小学校の運動会である。
その時『Rydeen』を振り付きで踊るパフォーマンスを練習し、クラスのみんなで披露したのである。
今では確かめるすべはないが、教員の誰かにYMOのファンがいたのだろうか?
今回の訃報で作曲者が高橋幸宏と初めて知った。

筆者はツイッターのタイムラインに流れてくるYMOに影響を受けた人々のリアクションを観る度に、その偉大な存在を改めて実感することになったのである。

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