最もハリウッドで成功した日本人俳優?『MINAMATA』出演の真田広之が師匠・千葉真一を超えたモノとは?

2021/9/29 22:00 龍女 龍女

①若手俳優時代の終わり『麻雀放浪記』
本名の下沢広之と名乗っていた子役時代に千葉真一と親子役で1966年の『浪曲子守唄』で共演した。
6歳に出演したこの作品がデビューであったことは、非常に幸運であった。

「子役上がりは大成しない」というジンクスを心配した両親から相談を受けた千葉に
「高校を卒業したら思う存分やらせてあげるから、一度仕事を休みなさい」
と命じられる。
正確な時期についてはハッキリしていないが、真田本人の証言から推察するに小学校高学年の出来事だと思われる。
(『真田広之:“俳優の完成形”とJACの歴史を、ビデオ考古学者・コンバットRECが振り返るから』より)

非常に的確なアドバイスを受けて、13歳には千葉真一が1970年に創設したJACに入団した。
中学校では剣道部、他にも習い事に日本舞踊など、時代劇俳優としての基礎は中高生の頃に形成されている。
高校を卒業して日本大学芸術学部入学と同じ頃に東映の大作『柳生一族の陰謀』(1978年)のオーディションに合格して、芸能活動を再開して以降、芸名を「真田広之」とする。
真田の由来は、戦国大名の真田ではなく、千葉真一の「真」と千葉真一の本名である前田禎穂の「田」を合わせたモノだそうだ。

前述の『里見八犬伝』あたりまでは主にアクション映画の主演や脇役が多かったが、大きな分岐点となったのは
1984年に公開された『麻雀放浪記』である。
原作は阿佐田哲也(本名は色川武大1929~1989)の麻雀小説である。
自伝的小説であるが、小説という形式をとっているため、フィクションも含まれている。
特に作家のペンネームに似ている主人公坊や哲が作者とほぼ同一人物にしてほしくない意思を読み取らなければならない。
監督は色川武大と交流のあったイラストレーターでグラフィックデザイナー、
和田誠(1936~2019)。
いわゆる異業種監督の一人で、成功した希有な人物である。

真田広之は、この作品で演技派俳優の第一歩を記した。


(麻雀放浪記の1シーンから。真田広之扮する坊や哲 イラストby龍女)

師匠・千葉真一の俳優としての金字塔が『仁義なき戦い 広島死闘編』なら、間違いなく真田広之のそれにあたるのは『麻雀放浪記』であろう。
作品自体がキネマ旬報4位、高品格(1919~1994)が日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞した名作である。
真田広之の受賞はなかったが、それまでのアクション路線とは別の路線の出発点になった重要な作品である。

和田誠が手がけたその後の長編劇映画の2作品、『怪盗ルビイ』(1988年)、『真夜中まで』(1999年)にも真田広之は主役級で出演している(『怪盗ルビイ』は主演・小泉今日子で準主役)。

1989年にJACを退団し、個人事務所ザ・リブラインターナショナルを設立する。
※私生活では1990年には、俳優の手塚理美(1961年6月7日生れ)と結婚している。
これ以降は直接の千葉真一の関わりはなくなった。
皮肉にも師匠からの独立が千葉真一が当初目指していた道を歩くことになる。
ブルース・リーが夭折して挫折した
ハリウッドに定着するアジア系のスター俳優
への道である。
しかしその前に90年代に入り、80年代のアイドル的人気から中堅の俳優になり、海外の映画出演もあったが本丸のハリウッド進出には遠かった。
あたかもそれを凝縮した作品『写楽』に重点を置いて観てみよう。

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