日本にラファエロのあの名画が!

2019/12/2 21:00 yamasan yamasan

ラファエロの色彩に魅了された絵師がいた

今年(2019)年、開館30周年を迎えた横浜美術館では、30周年を記念した企画展が開催されていますが、コレクション展(常設展示)も盛りだくさんの内容で見逃すわけにはいきません。

明治4年に横浜に窯を築いた初代宮川香山の超絶技巧が冴えわたる「真葛焼」。

初代宮川香山《高浮彫桜二群鳩大花瓶》(横浜美術館)

横浜開港期の様子を描いた国際色豊かな「横浜浮世絵」。

芳員(号:一川)《五国異人横浜上陸図》(横浜美術館)

そして、30周年を記念してイタリアからはラファエロの作品も来日!?




もうご覧になられた方もいらっしゃるかもしれませんが、この二つの作品は、近代日本画を代表する画家の一人、下村観山の模写。

トンド(円形画)に可愛らしい聖母子が描かれた《椅子の聖母》は、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する《小椅子の聖母》の模写を模写したもので(原本はイタリア・フィレンツェのピッティ宮殿パラティーナ美術館)、軸装が意外としっくりくる《まひわの聖母》(原本はフィレンツェのウフィツィ美術館)はイタリア滞在中に模写したものです。

本物のラファエロはいまトピの過去の記事で紹介しています。
数奇な運命をたどったドレスデンの至宝《システィナの聖母》


文部省の留学生として明治36(1903)年から明治38(1905)年まで、2年間のイギリス留学と6か月間のフランス、ドイツ、イタリア巡遊を命ぜられた観山は、西洋絵画の色彩を特に研究したいという思いが強くあり、大英博物館ほかで熱心に名画の模写を行いました。

横浜美術館開館30周年記念/横浜開港160周年記念
横浜美術館コレクション展「東西交流160年の諸相」

会 期  2019年9月21日(土)~2020年1月13日(月・祝)
開館時間 10時~18時
     *毎週金曜・土曜は10時~20時
     *1月10日(金)11日(土)12日(日)は10時~21時
     *入館は閉館の30分前まで
休館日  木曜日(2019年12月26日(木)は開館)
     2019年12月28日(土)~2020年1月2日(木)
入館料(税込) 一般500円ほか
*企画展観覧当日に限り、企画展の観覧券でコレクション展もご覧いただけます。
コレクション展、企画展の詳細はこちら→横浜美術館公式サイト
現在開催中の企画展はブログで紹介しています。
「横浜美術館開館30周年記念 オランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」





波乱に富んだ天才絵師の前半生、そして五浦時代

画家としても人生においても円熟期を迎える30歳前から32歳までの間に欧州滞在という貴重な体験をした観山は、子どもの頃から絵の才能を発揮していましたが、ここまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。

明治6(1873)年に和歌山県で生まれた観山(本名 下村晴三郎)は、明治14(1881)年に一家で上京し、絵を習いはじめ、翌年には狩野芳崖に師事することになります。このとき観山は今でいえばまだ小学校の高学年!
これだけでも「おそるべし観山!」なのですが、明治19(1886)年には芳崖の紹介で、芳崖と同じく木挽町狩野派の流れを汲む橋本雅邦のもとで絵を学ぶことになり、鑑画会に作品を出展してフェノロサにも注目されるようになりました。今でいえば中学生!

そして、明治22(1889)年、横山大観らとともに東京美術学校(現:東京藝術大学)に第1期生として入学、のちに同校校長となる岡倉天心の薫陶を受けることになります。

こちらは日蓮が民衆に向かって説法を行っている場面を描いた、在校中の作品《辻説法》。日蓮は他宗を批判したため反感を買ったので、あざけ笑っている人や刀を抜こうとして制止されている武士の姿などが細かに描かれています。

下村観山《辻説法》(明治25(1892)年)(横浜美術館)
(今回のコレクション展では展示されていません。)

狩野芳崖、橋本雅邦という明治前半の近代日本画界の二大スーパースターに学び、フェノロサ、岡倉天心という明治期の近代日本美術を牽引した二人の巨人にその才能を認められた観山は、東京美術学校卒業後、明治27(1894)年に同校助教授に就任して、日本画家として順調な滑り出しをしました。
しかしながら、それは長くは続かず、明治31(1898)年、岡倉天心の同校校長追放に伴い同校を辞職して、天心らが設立した日本美術院に参加しました。

東京美術学校在学中から絵巻物をはじめとした古画研究に励んでいた観山がその成果を大いに発揮した作品が《修羅道絵巻》。武士たちが雲に乗って進み、矢が飛び交う空中戦のスピード感、迫りくる劫火の迫力は半端ではありません。




いずれも下村観山《修羅道絵巻》(明治33(1900)年)(東京国立博物館)(部分)

観山は明治34(1901)年、東京美術学校に復職して教授に就任。その後、冒頭に紹介した欧州滞在の許可を得たのです。

帰国後、観山が所属していた日本美術院は経営的に立ちいかなくなり、同院の北茨城・五浦移転に伴い、観山は、岡倉天心、横山大観、菱田春草、木村武山とともに家族を伴い、北茨城の五浦に転居しました。

五浦についてもいまトピの過去のコラムで紹介しています。
日本美術の聖地・五浦へ

五浦は、茨城県天心記念五浦美術館はじめ天心ゆかりの観光スポットも、映画「天心」のロケセットもあって、断崖絶壁の海岸線も壮観な眺めで、とてもいいところです。ぜひ一度訪れてみてください。

小さい頃から絵の才能があって、狩野派の基礎訓練をみっちり積んで、日本の古画研究がベースにあって、イタリア・ルネサンスの色彩に目覚めた観山が、この五浦時代に描いた作品が、横浜美術館所蔵の名品中の名品《小倉山》。あざやかな色彩、木の幹の細部や葉の一枚一枚まで丁寧に描いくところは、まさに観山の真骨頂。
下村観山《小倉山》(明治42(1909)年)(横浜美術館)
(今回のコレクション展で展示されています。)

盟友との別れ、そして横浜本牧時代

眼病を患い観山たちより一足早く五浦を去って帰京した盟友・菱田春草が37歳の誕生日を目前にして亡くなったのが明治44(1911)年。

その後に観山が描いたのが《鵜》。
勢いよく飛び立つ左隻の雛に向かって、右隻の岸壁の上から鳴く親鳥は、亡くなった春草に向かって「行くな!」と叫んでいる観山や大観たちのようにも見えてきて、思わず涙ぐんでしまいます。
下村観山《鵜》(明治45(1912)年)(東京国立博物館)

五浦時代を経て、観山は横浜の実業家・原三溪の支援を受けるようになり、横浜の本牧に転居しました。

本牧時代にも観山の筆さばきは冴えわたります。
これでもかというくらい細部まで描いた木々や葉を背景に、ふさふさの毛の白い狐が浮かび上がる《白狐》。

下村観山《白狐》(大正3(1914)年)(東京国立博物館)

本牧や三溪園については、同じくいまトピのコラムで紹介しています。
初夏のヨコハマ、おススメ散策&美術展ガイド~近代日本画の足跡を訪ねて五浦から横浜へ~

昭和5(1930)年には、ホテルオークラの創始者、大倉喜七郎男爵の支援で、横山大観、速水御舟、川合玉堂、竹内栖鳳をはじめとした当時の日本画を代表する画家たちの作品177点が展示されたローマ日本美術展が開催されました。

リニューアルオープンした大倉集古館


観山は《不動尊》(大倉集古館)他の作品を出品したのですが、すでに病を得ていた観山は、大観らの訪欧団に加わって欧州を再訪する夢はかなわず、この年の5月に57歳で生涯を終えました。

今回のコラムで掲載した写真は、横浜美術館、東京国立博物館の常設展示で撮影可の作品を撮影したものです。他に東京国立近代美術館でも《木の間の秋》(明治40(1907)年)、《大原御幸》(明治41(1908)年)など観山の名作を所蔵しています。現在展示されていない作品も紹介していますが、今後コレクション展で展示される機会があるので、それぞれの美術館・博物館の公式サイトでチェックして、お好きな時に自分だけの「下村観山展」を開催してみてはいかがでしょうか。

主な参考文献
『生誕140年記念 下村観山展』図録(2013年 横浜美術館)
古田亮『日本画とは何だったのか』(2018年 角川選書)