【約100年前】大正時代の写真や絵はがきをひたすらカラーにしてみた
どうも服部です。近代日本をさまざまな形で振り返っていくシリーズ記事、今回は2015年12月に取り上げた「奉公袋」に入っていて、後日紹介するといいつつも、先延ばしにし続けてきた絵ハガキなどについて触れたいと思います。
こちらが奉公袋と、その中身。軍隊手帳や勲章、階級章に加え、牛乳石鹸の赤箱に、青いラベルの写真の印画紙の箱などが入っていました。
牛乳石鹸の赤箱を開けてみると、絵ハガキや写真が仕舞われていました。印画紙の箱の中にも入っていて、数えてみると絵ハガキが計73枚、写真が計18枚ありました。
そのまま紹介していくだけでも、充分に貴重なものばかりなのですが、より臨場感を感じられるよう、せっかくなので最新のAI技術を使って自動カラー化してみることにしました。「白黒写真の自動色付け技術」については、こちらの記事を参照ください。
まずは、サンプルの2パターンを御覧ください。
「め組ゆかた」でしょうか、うちわを持った女性の写真です。
それを自動カラー化したのがこちら。とても自然な色合いになっていると思います。今回試した絵ハガキ・写真の中で、一番鮮明に色が出ているうちの1枚でした。
一方で、こちらは広島県にある千田男爵銅像の絵ハガキですが、、、
あまり鮮明に色は出ていません。このAIはよく認識できるものには鮮明に、そうでないものは遠慮気味な配色となるようです。
ここからは自動色付けした絵ハガキ・写真だけを見ていきます。「大正九年四月五日、尼市付近戦闘の光景 歩兵第十五旅団司令部前に於ケル武装解除」というキャプションが付いています。大正9年は西暦1920年なので、ほぼ100年前の出来事です。
この絵ハガキの持ち主である鈴木茂さんは、同じく奉公袋に入っていた軍隊手帳の内容(該当記事)から、シベリア出兵(大正8年~大正9年)に出られており、その時の従軍記録が絵ハガキとして支給されたのでしょうか。さらに軍隊手帳の記録を見ると「(大正9年)四月五日ニコリスクウスリスキーにおいて戦い」と同じ日付で戦いがあったことが記載されています。
よく見ると、日本兵は銃を持っていて、ロシア革命軍(パルチザン)と思われる人たちは丸腰なので、革命軍を武装解除させた場面なのだと考えられます。
「クノリング付近 革命軍ノ破壊セル貨車」というキャプション。クノリングはウラジオストク近郊の鉄道駅のようです。草むらの緑がくっきりと表現されています。
「四月八日戦斗第二大隊射撃場高地占領」というキャプションの絵ハガキは、見晴らしの良い高地を占領した場面のようです。あまりAIが認識できていないようで、色がほとんど出ていません。
「ウスリー鉄橋工事中 六月十一日」という内容の絵ハガキです。神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・大阪朝日新聞 鉄道(15-50)によると、ウスリー鉄橋は、四月四日、五日にかけてパルチザンによって破壊されますが、(六月)十四日をもって、わずか二四日間でウスリー全線の交通機関修理を終了したとあるので、まさに工事完了間近の状態ではないでしょうか。
「南軍重砲兵射撃の実況」。大砲の硝煙が巻き上がる、生々しい戦闘の様子です。
「南軍歩兵敵兵攻撃の実況」。
「北軍軍隊通行の実況」。数枚の絵ハガキでの判断ですが、北軍は南軍よりも安泰な状況のようです。
「演習に於いて師団長閣下講評ノ実況」。実際にこの場にいた方以外には、状況が把握しにくい場面です。
「青森停車場通り」。先述の軍隊手帳によると、鈴木茂さんは青森港より船でウラジオストクに向け出港されているので、その時立ち寄った際に入手されたものでしょうか。
もう1枚青森から。キャプションは「青森停車場」。青森市のウェブサイト「あおもり歴史トリビア」で使用されている明治41年(1908年)の青森駅と同じ写真なので、110年前の姿です。
「宇品海岸通り」。鈴木茂さんは、約1年8ヵ月のシベリア出兵の後、1920年(大正9年)11月30日に宇品港(現・広島港)より上陸されているので、その時に入手されたのでしょうか。
ややこしいですが、こちらは自動色付け技術によってではなく、手彩色絵ハガキ(モノクロ写真に職人が手で色を付けたもの)です。「安芸似島陸軍検疫所」のキャプションが付いています。似島は1929年(昭和4年)までは広島県安芸郡に属していて(現在は広島市)、第二次世界大戦終了まで陸軍の検疫所がありました。
もう1枚、「安芸似島陸軍検疫所」の手彩色絵ハガキがありました。帰還してきた兵隊さんが、検疫を受けるところでしょうか。
「島宇品海水浴場」。11月末に宇品に来られているので、海水浴には時期外れですが……。
朝鮮民族の風俗シリーズの「農業」編です。宇品に着く以前、最後の出港の地が朝鮮半島の清津港だったからでしょうか。
同じく朝鮮民族の風俗シリーズ、「鋸挽き」です。
ここからは国産飛行機の貴重な絵ハガキの紹介(アルファベット表記が「GUNYO HIKOOKI」なのはご愛嬌)。まずは「伊賀式単葉飛行機」。「宿毛市立宿毛歴史館のHP」によると、伊賀氏広氏によって1911年(明治44年)につくられた「国産1号機」とのこと(ただし飛行できず)。「舞鶴号」という名前が付いていたそうです。
続いては「日野式飛行機」。日野熊蔵氏によって製造された飛行機で、「郵政博物館」に同じ写真があることから「日野式第2号機」のようです。「東京都新宿区教育委員会」によると、日野熊蔵氏が明治42~43年に最初の国産飛行機を製作したとあります(飛行は失敗)。どちらが国産初なのでしょうか。
3枚目は「奈良原式複葉飛行機」。奈良原三次氏によって製作された飛行機で、国立国会図書館の「リサーチ・ナビ」によると、国産民間機で初めて飛行に成功した飛行機は、明治44年5月5日、奈良原氏が製作した「奈良原式2号」だったそうです(ややこしい)。
こちらは写真ではなく絵画です。女性たちの水浴びを覗いている男性の図。なかなかユーモラスな1枚です。
この2枚は民族衣装のブロマイドなのでしょうか。2枚目は特に色付けが鮮やかにできていたので、色付け前の写真と並べてみました。
最後はこちら。他の絵ハガキはすべて未使用のものでしたが、この1枚のみ鈴木茂さん宛に実際に送られた使用済みハガキでした(クリック/タップすると、拡大版が見られます)。
「近衛歩兵第四連隊習志野野営演習実況」というキャプションが付いているので、戦地ではなく、千葉県・習志野の演習場のようです。4ヵ所に手書き文字が書かれていて、右上から時計回りに「この中に君の明友が一人いる」「敵は七百の前方にあり」「実戦ならば我が運命や何処」「一発一敵をたふさんと心と弾を一所に込めて」と、お互いが軍隊経験者のようで勇ましい文が綴られています。
2ページ目では、キャプションがなく、状況が説明しずらい写真を中心に紹介が続きます。お時間が許すようでしたらぜひご覧ください。
(服部淳@編集ライター、脚本家)
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