歌手デビュー25周年「観月ありさ」の美少女時代をふりかえる

2016/6/8 16:35 DJGB DJGB


今年5月で歌手デビュー25周年を迎えた観月ありさ。

このほど公式インスタグラムを開設し、その変わらぬ美貌に称賛が集まっています。6月5日には同じ事務所のタレントとともに熊本地震復興支援ライブを開催し、デビュー曲「伝説の少女」を5年ぶりに披露したことも話題となりました。


歌手デビュー25周年を記念してInstagramを始めました!ぜひフォローしてください!#観月ありさ25th

観月ありささん(@alisa_mizuki)が投稿した写真 -



バブル絶頂の1990年、観月ありさは、同時期に活躍していた宮沢りえ、牧瀬里穂とともに「3M(さんエム、スリーエム)」と呼ばれた存在です。今年の12月で40才を迎える彼女を“バブル世代”とくくるにはちょっと若すぎますが、その活躍とバブル期のイメージが重なるのは、彼女があまりにも早熟だったから。

そこで今日は、CDデビュー前にまでさかのぼり、バブル期に突如現れた“伝説の少女”観月ありさの美少女っぷりをふりかえります。



■まだ背が低い!デビュー前のSMAPとも共演

1989年 ドラマ「あぶない少年2」


もともと子役モデルとして引っ張りだこだった彼女。すでに1982年には沖田浩之とCMで共演するなど、業界では知られた存在でした。1989年には当時結成直後のSMAPとドラマで共演。他の女性アイドルと比較してもまだ背が低いのが印象的です。同じ年、彼女は「教師びんびん物語Ⅱ」にも児童役で出演していますが、当時クラスメートの中で最もフィーチャーされていたのは、のちにアイドルを経て「dos」のヴォーカルとしてデビューするtaekoこと西野妙子でした。



■元祖「森ガール」?それとも「不思議ちゃん」?

1990年 レナウン 「スコレー」



当時13才。観月ありさという美少女の存在を多くの人が認識するきっかけとなったのはこのレナウンのCMでしょう。「スコレー」は、アパレルのみならずテーブルウェアや雑貨なども提案する、今でいう「MUJI」や「earth music&ecology」 のようなライフスタイルブランドでした。

このころの彼女は子役を卒業し、雑誌『Olive』(マガジンハウス)にひんぱんに登場しはじめます。それまで『Olive』のモデルといえば金髪白人の男女と相場が決まっていたのですが、クォーターとはいえ、アジア系の彼女が“オリーブ少女”としてフィーチャーされるようになったのは画期的な事件でした。こうして彼女は、全国区の人気を得るために欠かせない【同性の支持】を着実に固めたのです。



■伝説の少女に、なりたい、いつも、夢見てた!

1991年 キリン 「シャッセ」


1991年5月15日、14才5か月でCDデビューを果たした観月ありさ。当時はいわゆるアイドル冬の時代。フジテレビ「乙女塾」出身のCoCoやribbonといったグループが必死に活動を続ける中、観月はたった一人でデビューし、尾崎亜美による楽曲の良さもあり、累計22万枚のヒットを記録します。

この曲以降、牧瀬里穂「Miracle Love(1991年10月発売。作詞・作曲 竹内まりや)」、中江有里「花をください(1991年10月発売。作詞・作曲 飛鳥涼)」など、“CM美少女が大物アーティストのプロデュースでCDデビュー”というパターンが定着します。



■ドリカムがメジャー化するキッカケにも。

1991年 富士フイルム 「フジカラー スーパーHG400」



同じく1991年、「SMILE」というキャッチコピーにあわせた観月の笑顔と、Dreams Come Trueの「Eyes to me」がベストマッチ。このCMでドリカムの認知度も飛躍的に高まりました。もはや「フイルム」が存在しない現代を、このころ誰が想像していたでしょう。



■実はギネス記録保持者の一面も!

1991年 富士通「FM TOWNS2」


富士通のハイパーメディアパソコン「FM TOWNS」のCMキャラは、南野陽子、宮沢りえを経て、観月ありさに引き継がれます。当時の彼女の破竹の勢いがうかがい知れようというものでしょう。
同じころ彼女は「超少女REIKO」で映画初主演。そして翌1992年にドラマ「放課後」で主演してから現在に至るまで、25年連続でテレビドラマの主演を務めるというギネス記録保持者(助演ナシ)でもあります。



■アムロちゃんよりも前に小室ファミリー入り!

1992年5月 4thシングル「Too Shy Shy Boy」発売


プリンセス プリンセスの奥井香プロデュースによる2ndシングル「エデンの都市(まち)」、再び尾崎亜美による3rd シングル「風の中へ」の路線を一新した4thシングル。小室哲哉の全面プロデュースによるダンサブルなナンバーは、累計36万枚を超えるヒットに。あまりメジャーではありませんが、カップリングの「春のとびら」も辛島美登里の作詞・作曲という豪華さでした。

余談ですがこのころの彼女のジャケ写には、足の長さとスタイルの良さを際立たせる全身ショットがよく用いられています。CDシングルというメディアが失われた現代では、もう使えない手法です。



まとめ:CM美少女、モデルから歌手、女優へ。の道を開いた先駆者

大人びた表情と、日本人離れしたスタイルで、アイドル冬の時代にさっそうと現れ、新しい“アイドル”像を提示した観月ありさ。それは従来のアイドルとは異なっていたかもしれませんが、こうしてふり返ると、のちの安室奈美恵、SPEEDらの路線を切り拓く意味で大きな意味があったことが分かります。彼女のデビューも早熟でしたが、時代も、いくらか早すぎたのかもしれません。

写真は彼女のインスタグラムから。25周年パーティでふるまわれたワインリストが、いいバブル感を醸しています。これからも変わらぬ活躍を期待したいですね。


#ワインリスト

観月ありささん(@alisa_mizuki)が投稿した写真 -




(バブル時代研究家 DJGB)


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