銃殺された男装の王女と少女スター…李香蘭を巡る美女達の哀しい運命

2014/11/19 18:30 星子 星子



2014年も終わりが近づいてきましたが、今年もまた激動の時代を駆け抜けた伝説の女優が帰らぬ人となりました。参院議員として活躍した山口淑子、旧芸名は李香蘭。昭和初期の旧満州で日本人でありながら「親日的な中国人女優」としてデビューし、時代の荒波に翻弄された美女の人生を、自伝『「李香蘭」を生きて (日本経済新聞社)』を参考に振り返ってみたいと思います。


■ 生い立ちとロシア人少女との友情

李香蘭こと山口淑子は、1920年(大正9年)2月12日、中華民國奉天省奉天北煙台で、佐賀県藩士族出身の父・山口文雄と、福岡県の回船問屋に生まれた母・アイの間に誕生します。



後に、生まれ育った母国は中国、両親の故郷は日本ということから「日本は父の国、中国は母の国」と発言したことを誤解され日中のハーフだと思われがちでしたが、両親ともに日本人です。



自伝本に掲載されている写真を見ると、鉄道会社で中国語を教えていた父は彫りの深い顔立ちの美青年で、当時としては珍しく大学(日本女子大)を卒業した母は和風の女性らしい顔立ち…淑子(李香蘭)のオリエンタルな美貌はどうやら父親譲りのようです。バイオリンやピアノ、お琴に親しみ中国語が堪能な少女は奉天女子商業学校で、共に数奇な運命に巻き込まれていくロシア人の少女リュバと出会います。



亡命白系ロシア人のリュバは日本人学校に通っており日本語が堪能で、両親は洋菓子店を営んでいました。肺が弱く呼吸器を鍛えろといわれた淑子(李香蘭)に、リュバは母の知人である著名なオペラ歌手・亡命貴族のマダム・ポドレソフを紹介します。リュバの導きによって声楽を始め、図らずもこのことがきっかけで彼女は“女優・李香蘭”になる運命へと押し流されてゆきます。



声楽の訓練を積んだ淑子(李香蘭)はある日マダムにリサイタルの前座で歌うように打診されます。振袖を着てステージに立った13歳の少女歌手に観客は割れるような拍手を贈り、ラジオ出演の依頼まで舞い込みました。



しかし、ラジオで求められていたのは“譜面が読めて日本語も分かる中国人の少女”でした…。奇しくも当時の中国では親しい家族同士で儀礼的な養子縁組を行う文化があり、彼女も父の友人である李将軍から“李香蘭”という名前を与えられていました。父親は難色を示しましたが、“ラジオでは顔が見えない”ことに気持ちを軽くした淑子(李香蘭)は、“中国人歌手・李香蘭”として歌手デビューを果たします。



そんなある日、親友リュバとの別れが突然訪れます。昭和9年、リュバに会いに行った淑子(李香蘭)は、玄関が板で打ち付けられ憲兵に囲まれたリュバの家を目にします。泣きじゃくる彼女を憲兵は無情にも追い払いました。




■ 女優・李香蘭の誕生と、男装の王女との出会い

その後、淑子(李香蘭)は将来政治家の秘書になるべく、父の古い友人である政界の大物を頼って北京へと身を寄せます。反日の機運が強まっていた北京で身を守るために、中国人になりきる日々が続きます。



そんな頃、父の友人である山家亨の紹介で悲劇の王女・川島芳子と知り合います。清朝の皇族・第10代粛親王善耆の王女として生まれながら日本人の養女として育ち、男のような短髪で日中を飛び回った「男装の麗人」、後に中国政府により、日本軍に協力したスパイとして銃殺刑に処せられた「東洋のマタ・ハリ」とも呼ばれる人物です。



<「同じヨシコとは奇遇だ。僕はちいさいころヨコちゃんと呼ばれていたから君のことをヨコちゃんと呼ぶよ。僕のことはお兄ちゃんと呼べよ」(『「李香蘭」を生きて (日本経済新聞社)』より)>

軍服姿の凛々しい王女とチャイナドレスの美少女スターが出会うシーンは劇的で、後にドラマなどで繰り返し再現されました。



肩に猿を乗せ豪遊する男装の王女は享楽的に描かれていますが、ホテルで寝ている淑子(李香蘭)の枕元に、

<「人に利用されカスのように捨てられた人間のいい例がここにある」(『「李香蘭」を生きて (日本経済新聞社)』より)>

と紫のインクで描かれた手紙を残したエピソードも記されていて、運命に怯えながら刹那的に奇行を繰り返した孤独な人物像も浮かび上がります。




■ 2つの愛する国の間で葛藤

昭和12年、満州国と満鉄の出資で映画会社「満映」が誕生します。少女歌手から“歌える女優”に転進し銀幕デビューを果たした淑子(李香蘭)は、瞬く間にスターへと躍り出ます。しかし日本人でありながら中国人という肩書きで、日本の国策会社「満映」の女優として活躍することは、18歳の女性のアイデンティティを引き裂くほど重いものでした。



<「中国人を侮蔑する映画に出ている。中国人としての誇りはどこへいったのですか?」「一等国民の日本人が三等国の中国の服なんて着て、恥ずかしくないのか。それでも日本人か」(『「李香蘭」を生きて (日本経済新聞社)』より)>

中国人女優になりきって艶やかな中国娘を演じ続けた彼女は、日中両国で人気を得ると同時にどっちつかずの立場で、両方の国民から鋭い言葉を浴びせられ続けます。



若きスターとして華やかな生活を送りつつ、撮影所での中国人差別を目の当たりにし、心を痛めた彼女は

<「悲しい。日本人の私が中国人と思われて差別されたこと、つまり祖国日本の人々が何故にか私の生まれ育った母国中国を見下すことが悲しかった」(『「李香蘭」を生きて (日本経済新聞社)』より)>

と語っています。



終戦間近の昭和20年には、幼馴染リュバとの再会も果たします。美しいロシア人女性に成長したリュバがリサイタルが終わった楽屋を訪ねてきたのです。突然消えたリュバの一家は実はボルシェビキ(共産党)だったという衝撃の事実を知り、再びつかの間の交友が復活します。この交友が図らずも、スパイとして中国政府に死刑にされかけていた淑子(李香蘭)の命を救うことになります。




■ 敗戦とスパイ疑惑、紙一枚が分けた生死

太平洋戦争が終わると、中国人女優として「満映」の国策映画に出演して敵軍に協力したスパイとして淑子(李香蘭)は真っ先に粛清の槍玉にあげられます。現地の新聞は李香蘭を売国奴と糾弾し、「李香蘭、死刑へ」という見出しが新聞に踊ります。淑子(李香蘭)は終戦を迎え、今度は母国中国によって軟禁され処刑されようとしていました。



そんな彼女の窮地を救ったのは旧友リュバでした。リュバは北京に飛び、彼女が日本人だという証拠の戸籍謄本を取り寄せ日本人形に隠し送り届けます。それによって彼女のスパイ容疑は晴れ自由の身となりますが、同じく戸籍謄本を取り寄せようとした川島芳子は、「どこの国籍であれ親が中国人であれば中国人である」という中国の血統主義に阻まれ、助命を嘆願するも叶わず銃殺刑に処されます。




■ ハリウッドに渡りシャーリー・ヤマグチに

日本に帰国した淑子(李香蘭)は東宝に働きかけ帝劇でリサイタルを開きますが、“李香蘭”であることを辞めた彼女に興味を失ったファンも多く、舞台の評判は芳しくありませんでした。昭和25年ハリウッドに渡った彼女は、「シャーリー・ヤマグチ」の芸名でブロードウェイの舞台でも活躍します。その頃パーティーで出会ったのが、世界的に有名な日系アメリカ人の彫刻家、イサム・ノグチです。



かの有名な“情熱の女流画家”フリーダ・カーロとも恋仲であったと言わるハンサムな容姿で、チャーリー・チャップリン・魯山人など華々し人物とも交友を持つ芸術家イサム・ノグチと急接近した淑子(李香蘭)は、愛する2つの国に板ばさみになった経験を分かち合い、電撃結婚をします。しかし芸術家と女優の結婚生活はすれ違い続きで、5年後には離婚してしまいます。




■ 動物愛護に取り組んだ議員時代と、幼馴染との切ない再会

その後、国連に勤務する大鷹弘と再婚した淑子(李香蘭)は「3時のあなた」などで司会業をこなすかたわら、動物虐待問題に関わったことをきっかけに自民党から出馬し、参議院議員・山口淑子が誕生します。

晩年、淑子(李香蘭)は戦後の混乱でまた離れ離れになっていたリュバと念願の再会を果たします。淑子(李香蘭)を取材していたTV関係者が、上海にいたユダヤ人グループの足跡からリュバの居場所を特定しました。1998年、NHKのドキュメンタリー番組の中で70代の幼馴染2人は再び出会います。



<幼かったリュバのそばかす顔が浮かぶ。戦争が終わり、上海の収容所にいた私に会いに来てくれた美しいリュバの面影が見えるようだった。空港に着いた。リュバが待っていた。体が小さくなって白髪に覆われてはいたが、ああリュバ、あなたね。あなたなのね。私も歳をとってわ。五十三年ぶりよ。『「李香蘭」を生きて (日本経済新聞社)』より)>

「日本語、全部忘れました」、懐かしい顔に深いシワが刻まれたリュバの身に降りかかった運命もまた、非常に過酷なものでした。夫はKGBに逮捕され7年もの間拘束されます。終戦後も革命と独裁と戦い続け、ついには息子にも先立たれたリュバ。2人は抱き合い長い時間語り合いました。



自伝『「李香蘭」を生きて (日本経済新聞社)』はこんな一説で締めくくられています。

<“帰国の時間だ。空港に車で向かった。車中でも私たちをカメラとマイクが追う。車が止まった。私は何気なく「お兄さんはどうしたの?」と尋ねた。カメラが離れた一瞬、リュバはささやいた。「ナナサンイチブタイを知っている?」。その言葉だけは日本語だった。(中略)本当にお兄さんは日本軍に命を奪われたの?リュバは沈黙したまま、その翌年の8月24日に逝った。答えてくれる人はもういない。問いは虚空をさまよっている。”(『「李香蘭」を生きて (日本経済新聞社)』より)>



いかがでしたか? 手塚治虫の名作漫画『アドルフに告ぐ』を思い出すようなラストシーンはまるで大河小説のようですが、これが自伝であることを思うと運命の重さに戦慄を覚えます。ユダヤ人少年と日系ドイツ人少年の幼い友情が戦争によって激しい憎悪に変わっていく様を描いた『アドルフに告ぐ』とはまた違った、“悲しみを抱きながらも時の流れに身を任せる”友情の形に、母性にも似た忍耐強さを感じます。



2008年には、川島芳子が処刑を逃れ中国東北地方の吉林省長春市で78年まで生きていたという説が流布されます。それに対し88歳の淑子(李香蘭)は半信半疑ながらも「心が安らぐ思いがする」といったコメントを寄せています。

かつて世間を騒がせた、“ロシア皇女アナスタシア生存説”とも似た根拠の薄い都市伝説ではありますが、それでもなお「もし本当にそうであったら…」と願ってしまう切なる思いに胸が締め付けられます。

(星野小春)

【参考】
※ 「李香蘭」を生きて (私の履歴書)山口 淑子 (著)
※ テレビ東京 - ドラマスペシャル「李香蘭」

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