吉永小百合が78歳にして初の祖母役!?『こんにちは、母さん』の監督・山田洋次が「日本映画をダメにした」と言われた経緯とは

2023/9/1 17:00 龍女 龍女

これは、津川雅彦が右翼で山田洋次が左翼だからと単純に政治的に分けても済む話では無い。

時代劇を知っているとか知らないという問題では無く表現をめぐる対立ではないか?

確かに山田洋次が本格的な時代劇に取り組んだのは藤沢周平(1927~1997)原作の『たそがれ清兵衛』(2002年11月2日公開)が初めてである。


(『たそがれ清兵衛』の真田広之 イラストby龍女)

庄内地方にある架空の小藩海坂藩の下級武士を主人公にした。
自ずとリアルな描写に頼らざるを得ないのではないか?

津川雅彦がマキノ雅彦名義で監督した『次郎長三国志』(2008年)は幕末の侠客、清水次郎長(1820~1893)を描いた娯楽時代劇である。
同作は伯父に当たるマキノ雅弘(1908~1993)が監督した1950年代に公開された9部作が有名だ。
近年では大ヒット漫画『ONE PIECE』の作者の尾田栄一郎が好きな映画にあげているくらいだ。
2代目広沢虎造(1899~1964)の浪曲で有名な連作を村上元三(1910~2006)が小説にまとめた作品が『次郎長三国志』の原作となっている。
ばくち打ちでシャバを奪い合う侠客がお互いの義理と人情をかけて争う抗争を描いている。
様式美に頼らざるを得ない。
つまり原作を選ぶ段階から描きたいとする表現が全く違う。

津川雅彦(本名・加藤雅彦)は日本映画の父と言われた牧野省三(1878~1929)を祖父に持つ。
京都に土地を持っていた牧野省三は敷地内にあった「千本座」を買い取って芝居を始めた。
それと当時はやり始めた活動写真を組み合わせて興行を打ち始めた。
映画の中で芝居を始めた。
芝居とは元々歌舞伎を示す言葉で、徐々に当時の新劇に見られるようなリアルな表現も取り入れるようになった。
こうした新しい表現を含めて江戸時代の様式を借りながら描いたジャンルを「時代劇」と呼ぶようになった。

無声映画時代の代表作が田村高廣(1928~2006)・正和(1943~2021)・(1946年5月24日生れ)の父である
阪東妻三郎(1901~1953)が主演した『雄呂血』(1925年11月20日公開)である。
製作は阪東妻三郎プロダクションで、配給元はマキノ・プロダクションだった。
製作総指揮が牧野省三である。

津川雅彦の発言は、いわば自分たち一族が日本映画の中でも特に時代劇を作ってきた自負から来る。
しかし、これは日本映画全盛期の1950年代に起った表現の大改革を抜きに、津川雅彦の一方的な主張を受け入れるわけにはいかない。
山田洋次は、時代劇が分からないのではない。
ある映画監督から影響を受けて時代劇のリアリズム表現を選んだに過ぎない。

山田洋次は1954年に東大法学部から松竹へ補欠入社した。
当時の映画会社は大学生憧れの就職先で倍率も高く助監督枠で入社するのは至難の業であった。
山田洋次が入社した1954年とは
日本映画の金字塔『七人の侍』が公開された年である。
若き山田洋次は入社した松竹が誇る小津安二郎や木下恵介よりも東宝の黒澤明(1910~1998)に憧れる映画青年であった。

黒澤明はジョン・フォードに代表される西部劇に影響を受けていた。
日本でしかない表現を求めて『七人の侍』では雨の多い日本ならではの泥にまみれるアクションシーンにこだわった。
ハリウッドがある晴れが多いカリフォルニア州では出来ないからである。

黒澤明は更に『椿三十郎』(1962)で三船敏郎と仲代達矢が戦うクライマックスで、仲代達矢の首からホースで血糊が吹き出す仕掛けを作って、リアルな殺陣を表現した。

これらのリアリズムな時代劇は娯楽性もあって大ヒットした。
しかし問題はこれまで様式美でもって時代劇を作ってきた東映の全体の興行収入が減ってしまった事だ。
東映とは、戦後に出来た映画会社だが、創業にはマキノ雅弘が関わっている。

日米合作で真珠湾攻撃を描いた『トラ・トラ・トラ!』(1970年)では最初日本側の監督は黒澤明であった。
ところが撮影が行われた東映撮影所では、トラブルが連発した。
山本五十六役が素人で、東映の幹部が使う控え室を使っていたこと。
ヤクザ映画が製作されていた東映の撮影所に黒澤明の嫌いなヤクザが出入りしていたこと。
更に黒澤明は恨みを買っていて、まともに東映撮影所のスタッフは協力してくれなかった。
黒澤明はストレスが積み重なり鬱状態になって、降板を余儀なくされた。

日本側の監督は二転三転したあげく東映の生え抜きの深作欣二(1930~2003)と日活からフリーになったばかりの舛田利雄(1927年10月5日生れ)に決まった。

今では世界の巨匠として知られる黒澤明もいつものスタッフでなかったために降板する事件が起ったのだ。
実際は配給製作会社の20世紀フォックスとの契約上のトラブルもあった。
一方で日本国内でも黒澤と東映の間にトラブルがあったことは見逃せない事実である。

映画産業が衰退し、TV業界が隆盛し始めると時代劇は主に連続ドラマとして放送されるようになった。
ここでも時代劇の撮影所として、東映太秦撮影所が1番稼働していた。

1971年に大映が倒産した。
撮影所で美術を担当していた西岡善信(1922~2019)は、日本一の映像美を誇っていた会社が倒産して困っていた。
1972年に元大映社員を率いて職人集団として映像京都として独立した。
映像京都は松竹撮影所を間借りして事務所を構えていた関係上、松竹制作の時代劇を担当する事も多かった。

特に90年代以降の松竹のTV時代劇、2代目中村吉右衛門が主演した
『鬼平犯科帳』(1989~2016)で2010年の解散まで関わっていた。
(西岡の2010年の引退後は株式会社京都組として存続している)
元々様式的だった美術にリアリズムを加えた『鬼平犯科帳』は今のTV時代劇の主流の表現になっている。


(20年前の山田洋次 イラストby龍女)

山田洋次が監督した『たそがれ清兵衛』には、衣装に黒澤明の娘の黒澤和子、美術監修に西岡善信などが関わっているので、津川雅彦が山田洋次が時代劇を知らないというのは根拠が全くない。
恐らく津川雅彦が気に入らなかったのは、時代劇のクライマックスの殺陣の描き方ではなかったのか?
王道の時代劇の殺陣の醍醐味は、少ない人数で多い敵に向かってバッタバッタと切り結ぶチャンバラにある。
しかし、『たそがれ清兵衛』の殺陣は、真田広之と田中ミン(氵に民)の1対1のガチンコ勝負が延々と続く。
しかも室内の暗闇で二人の動きが見にくい。

これは、日本映画が育ててきた「時代劇」の歴史に関わる重要な表現上の対立に過ぎなかったのだ。
観客にとっては、思想はどうでも良くて映画が面白ければ良いのだ。


さて筆者がX(旧Twitter)上でやりとりしている人物に映画評論家の小玉大輔という方がいる。
WOWOWが開催した映画王選手権の2代目王者である。
(初代は後に映画評論家になった元キャメラマンの松崎健夫)

この疑問に対して、筆者は「団塊の世代」と答えたので、吉永小百合とはどういう存在なのか?
同い年の宮本信子が出ていた『あまちゃん』にあやかって、アイドル目線で語ってみたいと思う。

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