空港、野球場、謎の埋め立て地……昭和時代の「幻の光景」を昔の航空写真で見つけた!

2014/7/16 21:15 服部淳 服部淳



どうも、服部です。goo地図の「昭和22年(1947年)の航空写真」や「昭和38年(1963年)の航空写真」などを使って、現代の東京と昭和の東京を比較していくという企画第3弾です(第1弾第2弾はこちらから見られます)。今回は、昭和時代に存在した「幻の光景」をテーマに紹介していきたいと思います。



●荒川区・南千住野球場

まずは、荒川区の都電・荒川区役所前近くにある「南千住野球場」から。航空写真で見るところ、野球場が2面並んでいます。荒川区が管理し、2時間2000円から利用できるようです。

さて、この「南千住野球場」の場所に以前何があったのでしょうか? 早速「昭和38年の航空写真」で見てみましょう……。






同じく野球場ですが、観客席もついた立派な球場、その名も「東京スタジアム」です。「毎日大映オリオンズ(略称『大毎オリオンズ』、現在の『千葉ロッテマリーンズ』)」のホームスタジアムとして使われていました(それまでは、読売ジャイアンツ、国鉄スワローズと共に3球団で後楽園球場を共用していました)。

1976年(昭和51年)から連載が続く超長寿漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所 」の第82巻、「光の球場!の巻」で主題として取り上げられているので、ご存じの方も多いかと思います。

「東京スタジアム」は1962年(昭和37年)に開場し、開場からわずか11年目の1972年(昭和47年)、親会社である大映が経営破綻した影響で閉場、引き取り手がなく、その5年後の1977年(昭和52年)には取り壊されています。

ちなみに、「昭和22年の航空写真」を見てみると……。




どうやら大きな建物の屋根のようです。Wikipediaによると、1879年(明治12年)に操業を開始した陸軍省管轄の「千住製絨所」の敷地だったそうです。同工場は戦後は民間に払い下げられましたが、1950年代になると経営が悪化、1960年(昭和35年)に閉鎖されています。



●江東区・有明/東雲周辺

2つ目は、まずは引きの航空写真で見てみましょう。画像左端近くに円を描いてから架かる橋がレインボーブリッジで、赤い枠の部分が今回のターゲットである、江東区の有明から東雲(しののめ)にかけてです。


ターゲット部分にズームインしてみるとこんな感じです。画像の下部に走っているのは、東京湾岸道路です。

さて、この場所に何があったのか、「昭和38年の航空写真」で見てみると……。








分かりにくいかもしれませんが、これ、「東雲飛行場」と呼ばれていた飛行場です。画像上部あたりをさらに拡大して見てみましょう。


いました。2機ほど飛行機が見えますね。

Wikipediaによると、「東雲飛行場」は東京航空株式会社が管理する、非舗装で430mの滑走路を持つ飛行場だったそうです。1980年(昭和55年)、東京湾岸道路の建設に伴い閉鎖されました。定期旅客便用ではなく、セスナ機での遊覧飛行や航空写真の撮影用のための飛行場だったようです。



●台東区・不忍池

続いては、上野にある不忍池です。上野動物公園と隣接しているので、動物園帰りに立ち寄ったという人も多いのではないでしょうか。池の大半、主に右下の辺りが茶色く見えますが、これは池を覆っている蓮(ハス)の葉が枯れているためだと思われます(冬場に撮影されたのでしょう)。昔は現在よりも少し広かったのだそうですが、明治時代後期、池の周りが競馬場として整備された際に少し埋め立てられたのだそうです。

天然の池であるため、昭和38年にも昭和22年にもこの池は存在していますが、この場所を「昭和22年の航空写真」で見てみると……。






池の形は同じですが、上野田圃と呼ばれた水田(畑?)になっていました。戦後の食糧難対策として、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)まで池は水田(裏作には麦畑)にされていたのです。その後、食糧難を克服すると、そのまま埋め立てて野球場を建設するといった話もあったそうですが流れ、1950年(昭和25年)には無事、池に戻ったそうです。



●板橋区・高島平団地

最後は、板橋区の埼玉県境近くにある都内有数の住宅団地「高島平団地」周辺。総戸数1万ほどのマンモス団地ながら都心からも近く、交通の便も良いため人気の集合住宅です。

この「高島平団地」の場所を「昭和38年の航空写真」で見てみると……。








一面、田んぼでした。現在の高島平周辺は「徳丸田んぼ」と呼ばれる田んぼが延々と続く地帯でした。

もともとは「徳丸ヶ原(とくまるがはら)」と呼ばれる江戸幕府の天領だった場所で、砲術家・高島秋帆が日本で初めての洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った場所としても知られていました(「高島平団地」の名称は、高島秋帆から名付けられました)。湿地帯で農作には向いてなかったようですが、明治時代に入ると技術の進歩により耕作が始まり、昭和初期には東京で生産される米の約7割がこのエリアで取れたものだったそうです。

しかし、都心部の住宅不足が深刻になってきたことを背景に、1963年(昭和38年)に「高島平団地」の建設が確定し、1969年(昭和44年)12月に工事着工となりました。

入居は1972年(昭和47年)1月から始まり、ピーク時の1990年(平成2年)には、5万9589人が暮らしていたそうです。

蛇足かもしれませんが、一応昭和22年の航空写真を見てみると……。






あぜ道(農道?)が少し変化しているだけで、ほぼ同じ。ゆっくりと、16年(昭和22年から38年)の月日が流れていったのでしょうね。

(服部淳@編集ライター、脚本家)



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