小池栄子が『鎌倉殿の13人』で北条政子を演じることになったのは「東大寺の大仏に似ている」から?「大仏にそっくり」の裏の意味とは?

2022/12/2 17:00 龍女 龍女

奈良時代の全盛期の文化を東大寺の大仏を建立させた聖武天皇(701~756)の在位期間(724~749)の内最も長かった元号・天平(729~749)から
天平文化と呼ぶ。


奈良時代は仏像の作り方にも大きな革命をもたらした。

金銅仏は仏教伝来した頃(6世紀)から多く作られた。
銅を型に流し込んで、冷えたら表面を金メッキあるいは金箔を貼って完成だ。
非常に高度な金属加工だったので、銅を用いる貨幣製造にも応用できた。
そして日本における最大の金銅仏が東大寺の大仏
正式名毘盧遮那仏である。
大量の銅を少しずつ下から型に流し込み繋げていって巨大な仏像を完成させた。
今では色は落ちたが、完成当時の東大寺の大仏は黄金に輝いていたはずだ。

しかし金属は今でも希少な材料である。
そこで身近にある材料としてが使われた。
平安の初期まで木の仏像は一木造りと大きな木から掘り出して作られた。
しかし、一木造りだけでは巨大な仏像の発注に答えられない。
特に木像で座像を作るときに不便が生じた。
立った姿勢の彫刻だと、大きな丸太だけで形にはなる。
座っていると、手や膝のあたりがはみ出した。
初期は一部継ぎ足しただけだった。
しかしこれだと、寺院に火災が起こると、仏像を避難して持ち運ぶには重い。
内刳(うちぐり)をして軽くする工夫もしていたが、それでも重い。
そこで平安後期に編み出された工法が、寄木造である。

更に簡単に手に入れられた材料が粘土である。
土器や土偶や埴輪が時代が進んで廃れた。
後に土が材料に用いられる場面は食器の等の土器が主流ではあった。
土の出来たモノを塑像という。
奈良時代に作例が多い。
東大寺法華堂(三月堂)の執金剛神立像、日光菩薩像・月光菩薩立像、弁才天・吉祥天立像。
同じ東大寺の戒壇堂にある四天王像も塑像で出来ている。

修復作業に従事していた慶派の仏師達は更に新しい技術を開発した。
塑像の代表例の東大寺の四天王像の瞳には黒い石がはめ込まれている。
これは黒曜石を瞳に見立てて埋め込んだモノだ。
おそらく慶派の誰かが思いついたのが、これを応用した「玉眼」である。
仏像の目をより本物らしくみせるために水晶の板をはめ込む。
内側からはめ込んだ水晶の板に黒く瞳を塗るのである。
現存する最古の作例が、奈良県天理市にある長岳寺の阿弥陀三尊像で、胎内の銘から1151年の作と判明している。運慶の親の世代である。


(相島一之演じる運慶 イラストby龍女)

鎌倉時代の仏像は、よく新しい技法の玉眼やリアルな表現ばかり取り上げる。
古くからあった技術を学んで編み出された事を忘れてはならない。
慶派が鎌倉時代に新しい仏像を残せた理由とは?
源平合戦の中で起こったあの出来事を思い出さずにはいられない。
そう東大寺に起こったあの悲劇である。

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