小池栄子が『鎌倉殿の13人』で北条政子を演じることになったのは「東大寺の大仏に似ている」から?「大仏にそっくり」の裏の意味とは?

2022/12/2 17:00 龍女 龍女

運慶(?~1224)は日本美術史においても重要人物である。


(集古十種から模写した運慶の肖像 イラストby龍女)

概要として日本美術史を習うと、中世まではほぼ仏像の話だ。
それは、世界史的にも宗教にお金と権力が集中していた時代だったからだ。
政教分離と言われ始める近代よりも500年前の世界だ。
日本でも主なパトロンは天皇上皇や貴族から新興勢力である鎌倉武士に変化していた。

当時の芸術家にあたる職業は殆ど仏師だった。
僧侶になって仏教を学ぶ事は、宗教者と言うより当時の最新の技術や情報を入手する手段としても有効だった。
インテリ・技術者階層が僧侶だった。

当時の先進国は東アジアでは、今の中国にあった帝国(960~1279)だ。
宋から最新情報が渡るときに重要な役割を果たしたのが、留学した日本人僧か来日した宋の僧である。

運慶以前に有名な仏師は
飛鳥時代(592年~710年)中期の鞍作止利(生没年不詳)
平安時代(794年~1185年)後期の定朝(?~1057)
がいる。

運慶(相島一之)の台詞にあった、親方として弟子に分担させて集団で仏像を制作するやり方は
定朝の時代に確立された「寄木造(よせぎづくり)」技法のお陰だ。
何十分の一の模型の段階からパーツ毎に分けて組み立てる。
巨大化して本番の仏像を作るための準備である。
全体を親方である運慶が組みあがった巨大な彫刻の修正を加えて完成させる。
この方法だと、極めて短時間で巨大な仏像が完成する。
運慶とその工房である「慶派」の代表作が
東大寺南大門金剛力士立像(1203年建立)である。

運慶は、元々当時は南都と呼ばれた奈良の東大寺を拠点に活躍した仏師集団の親方だ。
生年ははっきりしないが、1150年前後の生れである事は、1173年生れの長男湛慶(1173~1256)から逆算して分かるそうだ。

若い頃の運慶は、父であり師匠の康慶(生没年不詳。推定1196年以降没)の元で修行した。
生い立ちが分かっていないが、記録が未発見でこれは受注される仏像が少なかったからと考えられる。

平安の末期はまだまだ京都在住の仏師、宇治の平等院阿弥陀三尊像を造った定朝の孫・院助の系統である院派が幅を利かせていた。
慶派も定朝の孫・頼助の代から生れた系譜だ。
古都である奈良に留まった傍系の仏師集団で、新作の仏像の発注は少ない。
奈良の仏像の修復作業が主な仕事だったと考えられる。

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