小栗旬も心配な大河ドラマ後の仕事…『鎌倉殿の13人』和田義盛役の横田栄司が降板した舞台『欲望という名の電車』は多くの俳優が憧れた名作だった!

2022/11/4 17:00 龍女 龍女

『欲望という名の電車』は1947年に初演された。
作者はテネシー・ウィリアムズ(1911~1983)である。
テネシー・ウィリアムズは長年ニューオリンズに住み続けていたので、この戯曲の舞台に選んだ。


(テネシー・ウィリアムズ イラストby龍女)

上演されたのは、ニューヨークのブロードウェイ地区エセル・バリモア劇場である。
エリア・カザン(1909~2003)が演出を務めた。
エリア・カザンはニューヨークにある演劇学校
『アクターズ・スタジオ』(1947年創設)の創設者の一人。
初演でスタンリー・コワルスキーを演じた
マーロン・ブランド(1924~2004)はアクターズ・スタジオの教え子である。
マーロン・ブランドは、同じエリア・カザンが監督を務めた映画版(1951年)のスタンリーを演じたことが、映画主役級では初めてだった。
50年代前半は演出家エリア・カザンとは『革命児サパタ』(1952)、アカデミー主演男優賞を獲得した『波止場』(1954)で組んだ。
『欲望という名の電車』はスター俳優としての出発点となった。
なんと言っても新人俳優マーロン・ブランドの最大の功績がファッション面でもある。
今ではアイテムとして常識になったTシャツを世界中に広めた張本人なのである。
Tシャツは元々兵士に支給された上半身を包む下着である。
戦争から故郷に帰還した元兵士の若者は、そのまま地元にTシャツを持ち帰った。
普段着として身につけるようになって兵士以外にも広まるようになったそうである。

下のイラストは、前半の決め台詞
「ステラー!」を再現したものである。
スタンリーは深夜2時まで友人とポーカーをしていた。
仕切りが薄いカーテン一つしかない狭いアパートの部屋。
同居している妻のステラと喧嘩になってしまう。
泥酔していたスタンリーは衝動的に妊娠中のステラを殴ってしまった。
友人達が止めに入り、バスルームでシャワーを浴びせ、酔いを覚ます。
ステラは大家のハベル夫妻の部屋に避難した。
酔いが覚めたスタンリーは殴った瞬間のことは記憶がない。
友人達は、それぞれの家に帰ってしまった。
ステラが部屋にいなくなったことにパニックになったスタンリーが叫ぶのがこの台詞である。
よれたTシャツからスタンリーの上半身が露出して、スタンリー役の俳優の肉体美が強調される見せ場だ。
ステラは2階の大家の部屋から出てきて、懇願するスタンリーを抱き留める。

スタンリーとステラは部屋のベッドで愛し合い始めるのである。


(『欲望という名の電車』のマーロン・ブランド イラストby龍女)

評判をとった『欲望という名の電車』はロンドンでも上演されるようになった。
1949年の10月12日の劇場街ウェストエンド地区のオルドウィッチ劇場で上演された。
演出はローレンス・オリヴィエ(1907~1989)に変わった。


(ロンドン上演版の演出家ローレンス・オリヴィエ イラストby龍女)

ブランチ役はブロードウェイ版のジェシカ・タンディ(1909~1994)に代わり
ヴィヴィアン・リー(1913~1967)が演じた。
彼女は私生活では、ローレンス・オリヴィエの妻でもあったが、この役に決まったのはそうした公私混同ではない。
この役がどう考えてもヴィヴィアン・リーにピッタリだったからである。
それは、かつて彼女が演じた映画『風と共に去りぬ』の南部の大農場の娘スカーレット・オハラの孫世代の物語であった。


(ロンドン上演版と映画のブランチ役ヴィヴィアン・リー イラストby龍女)

1951年に映画化されたとき、ブロードウェイ版とロンドン版のキャストが選抜された。
映画版の『欲望という名の電車』はヴィヴィアン・リーに1939年の『風と共に去りぬ』以来の2度目のアカデミー主演女優賞をもたらした。

『欲望という名の電車』の日本版は1953年に初めて文学座によって上演されることになった。
だから、『欲望という名の電車』という戯曲は、文学座にとって特別な演目なのである。
文学座と『欲望という名の電車』と横田栄司がどう繋がってくるのか?
詳しくみていこう。

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