藤原竜也も小栗旬も頭が上がらない?吉田鋼太郎が50代になってからメディア露出するようになった理由とは?

2022/7/29 15:30 龍女 龍女


吉田鋼太郎は地元の東京都日野市立第三中学校卒業後、八王子市の全寮制の男子校聖パウロ学園高等学校(現在は男女共学。全寮制と男子のみは2002年に廃止)に進学した。
その在学中に、劇団雲のシェイクスピア喜劇『十二夜』を観て、衝撃を受けたそうだ。
吉田鋼太郎に限らずとも、誰しも高校生の頃に衝撃を受けた出来事に後の人生を左右されるではないだろうか?

吉田鋼太郎が世界で一番有名な劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616)の作品群に出逢った事は、彼の人生を大きく方向付けた。


(伝ジョン・テイラー作『ウィリアム・シェイクスピアの肖像画』1610年頃を模写 イラストby龍女)

劇団雲とは、戦後(1945年以降)から1960年代前半までの三大新劇(他は俳優座・劇団民藝)の劇団の一つ、文学座から分裂した劇団の一つである。
1963年に設立した。
しかし、二人の中心人物の対立で1975年に解散した。
わずか12年ほどの活動期間しかなかった、今となっては幻の劇団である。

その対立した人物を紹介しよう。
元文学座の文芸部員の福田恆存(1912~1994)だ。
新潮社のシェイクスピアシリーズの翻訳を担当した。
もう一人は、俳優・演出家の芥川比呂志(1920~1981)である。
今や文学賞として日本一有名な芥川賞の由来となった芥川龍之介(1892~1927)の長男である。
「比呂志」とは、父・芥川龍之介の親友であった作家で、菊池寛の「ひろし」を字を変えていただいたそうだ。
菊池寛は、龍之介の死後芥川賞を創設した。文藝春秋の初代社長でもある。

筆者が長ったらしい文の芸能コラムを書くようになったのは、小説家・コラムニスト・評論家でもあった橋本治(1948~2019)の映画エッセイ『虹のヲルゴオル』に高校生時代に出逢ったせいである。
橋本治の他の著書で、題名は忘れてしまった。
とある芸能コラムに、シェイクスピアの四大悲劇のうち『ハムレット』の主人公、デンマークの王子ハムレットを演じた芥川比呂志のすごさを書いていた。
1955年の文学座の舞台で演じたハムレットは伝説になっているらしい。
橋本治が直に観たのだとしたら、まだ彼が小学生の頃である。

吉田鋼太郎が観た『十二夜』の配役や演出は、詳細は筆者には不明だ。
しかし、芥川比呂志は演出家としても定評があったようなので、芥川が演出した舞台だったかもしれない。

吉田鋼太郎は高校を卒業後、上智大学ドイツ文学科在学中シェイクスピア研究会公演『十二夜』で初舞台を踏む。
上智大学は中退したそうだ。
芥川比呂志が劇団名を付けた今ではミュージカルの方が有名な「劇団四季」に6ヶ月在団した。
シェイクスピア・シアター、劇工房ライミング、東京壱組と小劇団を渡り歩いた後、1997年に演出家栗田芳宏と共に劇団AUNを結成、演出も手がける。

芥川比呂志が病気のため演劇そのものに関われなくなった、70年代半ばに入れ替わるようにシェイクスピアの作品群を手がける日本人演出家として名前が上がってきた存在がいた。
それが日本を代表する演出家になる蜷川幸雄(1935~2016)である。
蜷川は四大悲劇の『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた『NINAGAWAマクベス』(初演1980年)で演出家としての名声を獲得した。
しかし、筆者が蜷川演出でシェイクスピア作品を楽しんだのは、NHK芸術劇場の舞台中継で放送された渡辺謙主演の『ハムレット』(1988年)である。
VHSのビデオテープに録画して、数回観た。
舞台装置がひな壇になっている演出が強烈な印象が残っている。
渡辺謙(1959年10月21日生れ)は、直接薫陶は受けていないが、劇団雲解散後芥川比呂志が作った劇団円の劇団員だった。
円の養成所在籍中に、蜷川幸雄演出の唐十郎作の『下谷万年町物語』(1981)で本格的に俳優デビューしたそうなので、演劇の歴史の繋がりを感じる。

蜷川幸雄は、埼玉県川口市出身である。
1994年に開館した埼玉県が管理する彩の国さいたま芸術劇場がある。
1998年から彩の国シェイクスピア・シリーズが始まった。
シェイクスピアの戯曲は公式には全部で37作品あるとされている。
その全作品を当初は13年間で、彩の国さいたま芸術劇場を皮切りに地方巡業へ廻るシリーズであった。
その芸術監督に埼玉県が誇る世界的演出家蜷川幸雄が選ばれた。


(1984年の角川映画『Wの悲劇』で舞台演出家役の蜷川幸雄 イラストby龍女)

吉田鋼太郎がシェイクスピア俳優として、ようやく蜷川幸雄の演出に関わるのは2作のギリシャ悲劇の作品の上演を経た後だった。
主役に抜擢された第13弾『タイタス・アンドロニカス』(2004年1月~2月)まで待つ事になる。
吉田鋼太郎は、蜷川幸雄の芝居にどうしても出たかったそうだが、オーディションに落ちた事もあったらしい。
蜷川幸雄の芝居を観たい演劇ファンは多かった。
毎月のように上演されていて、日本一忙しい演出家だった時期もある。

吉田鋼太郎が俳優になった動機はシェイクスピアを演じられるようになりたかったからである。
俳優としての優先順位が演劇にあった。
蜷川の演出するシェイクスピア劇こそ最も多くの観客に観られる舞台設定である。
そして、2010年代に蜷川幸雄と吉田鋼太郎に起きた大きな変化が遅咲きの映像メディアのブレイクとも関わってくる。

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