音楽ドキュメンタリー映画『サマー・オブ・ソウル』の舞台は1969年の夏のニューヨークのハーレム。当時19歳だったスティーヴィー・ワンダーが10年後に生み出した名曲との関係が分かった!
②70年代のスティーヴィー・ワンダーは間違いなく音楽を進化させた
マウント・モリス公園の特設ステージに立つ6年前、既にスティーヴィー・ワンダーは、4枚目のシングル『フィンガー・チップス・パート2』で、1963年の8月10日付ビルボードのHot100(以下全米と表記)の週間1位を記録、3週連続獲得していた。
この時、13歳3ヶ月という年齢はソロアーティストに限ると、いわゆる全米1位の未だに最年少記録である。
(グループを含めると、ジャクソン5のリードボーカルだったマイケル・ジャクソンの『帰ってほしいの』1970年1月31日付1週時点の11歳5ヶ月が最年少という説もあり)
未熟児網膜症で目が見えなくなり、4歳で両親が離婚した際に、母と共に出生地のミシガン州サギノーから州最大の都市デトロイトに移住してから、運が向いてきた。
幼少期から友人たちと楽器で遊んでいたところから、音楽の才能が開花した。
11歳には地元のレコード会社モータウンの創業者で社長のベリー・ゴーディJrのオーディションを受け、合格。
本名はスティーヴランド・ハーダウェイ・モリスから、リトル・スティーヴィー・ワンダーと名乗って活動することにした。
幼いながら、ほぼビートルズと同じキャリアの彼は、R&Bの世界では、レイ・チャールズに続く盲目の天才として、60年代にはモータウンのソロアーティストとして次々とヒット曲を連発していた。
ランキング上では『フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ』が1968年の10月に発売され、12月28日付の週間全米チャートで総合最高2位を記録した。
映画『サマー・オブ・ソウル…』の中で、パフォーマンスしているのは同じ年に最高9位を記録した
『シュ・ビ・ドゥ・ダ・デイ』である。
スティーヴィー・ワンダーはこの曲をクラヴィネットという電気式のキーボードを使って演奏しているが、アドリブ演奏の最後に70年代に更に展開されるフレーズの一端を聴くことが出来て、筆者は満足であった。
スティーヴィー・ワンダーは、1971年5月13日の21歳の誕生日でモータウンとの契約更新をした。
未成年の時点で大金を使う危険性を考慮して、21歳まで稼いだ金額は基金に貯蓄していた。
歌手としてよりも演奏能力を買われて契約した。
リトル・スティーヴィー・ワンダーからリトルが取れた10代後半あたりから作曲家としての契約も加えられた上での、契約更新である。
それまで作曲家としての版権は、モータウンの音楽出版社ジョベットが所有していたが、自前の会社タウラス(牡牛座)が所有することになった。
アーティストはアルバムの素材になるマスターテープを完成させ、レコード会社に納入する。
モータウンの本社は、映画制作に進出する為にロサンゼルスに移転していた。
スティーヴィー・ワンダーは、10代の大人から監視された立場から一人の自立したアーティストとして、認められることになった。
レコード会社専属歌手兼作曲家から、個人事業主とレコード会社の関係に変化したわけである。
そこで、楽曲を制作するために、ニューヨークへ渡った。
エレクトリック・レディ・スタジオを借りて膨大な数の楽曲を制作した。
エレクトリック・レディ・スタジオは、あのウッドストックでロックギタリストの頂点に立った
ジミ・ヘンドリックスがライブハウスの跡地をレコーディングスタジオとして建設した施設だ。
当のジミ・ヘンドリックスは、1970年9月18日にロンドンのホテルで、寝る前に酒と睡眠薬を服用し、吐瀉物が喉に詰まって窒息して死んでしまい、スタジオで録音した期間は10週間ほどだった。
このスタジオを選んだのは新しいサウンドづくりに不可欠な場所であったからだ。
特に新しいサウンドづくりに欠かせない、シンセサイザーの使い手の音楽家がいた。
ロバート・マーゴレフ(1940年8月8日生まれ)とマルコム・セシル(1937~2021)が近くに住んでいた。
スティーヴィー・ワンダーと、この二人の音楽家兼プロデューサーの元で
膨大に制作された楽曲の中から選ばれて
心の詩(1972年3月3日)
トーキング・ブック(1972年10月28日)
インナーヴィジョンズ(1973年8月3日)
ファースト・フィナーレ(1974年7月22日)
の4枚のアルバムが制作された。
このアルバムの後、ロバート・マーゴレフとマルコム・セシルのコンビとの制作は解消してしまう。
1976年9月28日に数度の発売予定の延期を経てLP2枚組と4曲入りEPと言う異例の組み合わせのアルバム
キー・オブ・ライフは最高傑作である。
『トーキング・ブック』からのシングル曲『迷信』(1973年1月27日付1週)『サンシャイン』(同年5月19日1週)、『ファースト・フィナーレ』からの『悪夢』(1974年11月2日付け1週)、『キー・オブ・ライフ』から『回想』(1977年1月22日1週)『愛するデューク』(1977年5月21日付け3週連続)は、全米1位を記録した。
『迷信』が最優秀男性R&Bボーカル賞と最優秀R&B楽曲賞、『サンシャイン』が最優秀男性ポップ・ボーカル賞。『インナーヴィジョンズ』と『キー・オブ・ライフ』が最優秀アルバム賞を受賞した。
シンセサイザーと言う究極の電子楽器をポップミュージックへ取り込んで、可能性を広げたことが未だに多くのミュージシャンに大きな影響を与えている。
例えば『キー・オブ・ライフ』収録曲、サルサを取り入れた『アナザー・スター』はサザンオールスターズのデビュー曲『勝手にシンドバット』のサウンドに大きな影響を与えている様に思われる。
サウンドトラックの
シークレット・ライフ(1979年10月30日)を経て
(この中の収録『愛の園』は日本語が出て来る。
コーラスはロサンゼルスの日本人学校の子供達が担当した。その中の一人に後の西田ひかるがいる。この曲は西城秀樹がカバーしている)
あの名曲が収められたアルバムが発表されることになるのである。
マウント・モリス公園の特設ステージに立つ6年前、既にスティーヴィー・ワンダーは、4枚目のシングル『フィンガー・チップス・パート2』で、1963年の8月10日付ビルボードのHot100(以下全米と表記)の週間1位を記録、3週連続獲得していた。
この時、13歳3ヶ月という年齢はソロアーティストに限ると、いわゆる全米1位の未だに最年少記録である。
(グループを含めると、ジャクソン5のリードボーカルだったマイケル・ジャクソンの『帰ってほしいの』1970年1月31日付1週時点の11歳5ヶ月が最年少という説もあり)
未熟児網膜症で目が見えなくなり、4歳で両親が離婚した際に、母と共に出生地のミシガン州サギノーから州最大の都市デトロイトに移住してから、運が向いてきた。
幼少期から友人たちと楽器で遊んでいたところから、音楽の才能が開花した。
11歳には地元のレコード会社モータウンの創業者で社長のベリー・ゴーディJrのオーディションを受け、合格。
本名はスティーヴランド・ハーダウェイ・モリスから、リトル・スティーヴィー・ワンダーと名乗って活動することにした。
幼いながら、ほぼビートルズと同じキャリアの彼は、R&Bの世界では、レイ・チャールズに続く盲目の天才として、60年代にはモータウンのソロアーティストとして次々とヒット曲を連発していた。
ランキング上では『フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ』が1968年の10月に発売され、12月28日付の週間全米チャートで総合最高2位を記録した。
映画『サマー・オブ・ソウル…』の中で、パフォーマンスしているのは同じ年に最高9位を記録した
『シュ・ビ・ドゥ・ダ・デイ』である。
スティーヴィー・ワンダーはこの曲をクラヴィネットという電気式のキーボードを使って演奏しているが、アドリブ演奏の最後に70年代に更に展開されるフレーズの一端を聴くことが出来て、筆者は満足であった。
スティーヴィー・ワンダーは、1971年5月13日の21歳の誕生日でモータウンとの契約更新をした。
未成年の時点で大金を使う危険性を考慮して、21歳まで稼いだ金額は基金に貯蓄していた。
歌手としてよりも演奏能力を買われて契約した。
リトル・スティーヴィー・ワンダーからリトルが取れた10代後半あたりから作曲家としての契約も加えられた上での、契約更新である。
それまで作曲家としての版権は、モータウンの音楽出版社ジョベットが所有していたが、自前の会社タウラス(牡牛座)が所有することになった。
アーティストはアルバムの素材になるマスターテープを完成させ、レコード会社に納入する。
モータウンの本社は、映画制作に進出する為にロサンゼルスに移転していた。
スティーヴィー・ワンダーは、10代の大人から監視された立場から一人の自立したアーティストとして、認められることになった。
レコード会社専属歌手兼作曲家から、個人事業主とレコード会社の関係に変化したわけである。
そこで、楽曲を制作するために、ニューヨークへ渡った。
エレクトリック・レディ・スタジオを借りて膨大な数の楽曲を制作した。
エレクトリック・レディ・スタジオは、あのウッドストックでロックギタリストの頂点に立った
ジミ・ヘンドリックスがライブハウスの跡地をレコーディングスタジオとして建設した施設だ。
当のジミ・ヘンドリックスは、1970年9月18日にロンドンのホテルで、寝る前に酒と睡眠薬を服用し、吐瀉物が喉に詰まって窒息して死んでしまい、スタジオで録音した期間は10週間ほどだった。
このスタジオを選んだのは新しいサウンドづくりに不可欠な場所であったからだ。
特に新しいサウンドづくりに欠かせない、シンセサイザーの使い手の音楽家がいた。
ロバート・マーゴレフ(1940年8月8日生まれ)とマルコム・セシル(1937~2021)が近くに住んでいた。
スティーヴィー・ワンダーと、この二人の音楽家兼プロデューサーの元で
膨大に制作された楽曲の中から選ばれて
心の詩(1972年3月3日)
トーキング・ブック(1972年10月28日)
インナーヴィジョンズ(1973年8月3日)
ファースト・フィナーレ(1974年7月22日)
の4枚のアルバムが制作された。
このアルバムの後、ロバート・マーゴレフとマルコム・セシルのコンビとの制作は解消してしまう。
1976年9月28日に数度の発売予定の延期を経てLP2枚組と4曲入りEPと言う異例の組み合わせのアルバム
キー・オブ・ライフは最高傑作である。
『トーキング・ブック』からのシングル曲『迷信』(1973年1月27日付1週)『サンシャイン』(同年5月19日1週)、『ファースト・フィナーレ』からの『悪夢』(1974年11月2日付け1週)、『キー・オブ・ライフ』から『回想』(1977年1月22日1週)『愛するデューク』(1977年5月21日付け3週連続)は、全米1位を記録した。
『迷信』が最優秀男性R&Bボーカル賞と最優秀R&B楽曲賞、『サンシャイン』が最優秀男性ポップ・ボーカル賞。『インナーヴィジョンズ』と『キー・オブ・ライフ』が最優秀アルバム賞を受賞した。
シンセサイザーと言う究極の電子楽器をポップミュージックへ取り込んで、可能性を広げたことが未だに多くのミュージシャンに大きな影響を与えている。
例えば『キー・オブ・ライフ』収録曲、サルサを取り入れた『アナザー・スター』はサザンオールスターズのデビュー曲『勝手にシンドバット』のサウンドに大きな影響を与えている様に思われる。
サウンドトラックの
シークレット・ライフ(1979年10月30日)を経て
(この中の収録『愛の園』は日本語が出て来る。
コーラスはロサンゼルスの日本人学校の子供達が担当した。その中の一人に後の西田ひかるがいる。この曲は西城秀樹がカバーしている)
あの名曲が収められたアルバムが発表されることになるのである。