音楽ドキュメンタリー映画『サマー・オブ・ソウル』の舞台は1969年の夏のニューヨークのハーレム。当時19歳だったスティーヴィー・ワンダーが10年後に生み出した名曲との関係が分かった!
①ハーレム・カルチュラル・フェスティバルとは?
アメリカに住むアフリカ系は人種差別により選挙権が無かった。
自分たちの生活を改善してくれる政治家を選ぶ権利を勝ち取るための公民権運動が盛んだったのが60年代。
コミュティーの中心であるキリスト教の教会の牧師が活動の中心にいた。
その代表的な一人マーティン・ルーサー・キングJrが1968年の4月4日に暗殺された。
その怒りはすさまじく、翌日からアメリカ各地で暴動が起こった。
アフリカ系の貧困層が数多く住んでいたニューヨーク州のハーレムでもそれが例外では無かった。
無名のラウンジシンガーで司会をしていたトニー・ローレンスが主催者となり、当時のニューヨーク市の市長ジョン・リンゼイ(1921~2000)が保証人のような形で音楽フェスティバルは実現できた。
無料の音楽フェスティバルは、政治家の立場から観れば、暴動抑止を目的として、都合がよかった面もあろう。
ハーレムに住んでいる移民たちのルーツにつながる様々なジャンルの出演者たちを直接観ること。
観客の殆どのアフリカ系に自分たちの文化の素晴らしさを啓蒙することに繋がった。
暴動の根本的な感情の「絶望」をなんとか「希望」へ向かわせる何かは残したようだ。
余談として、
このフェスティバルには、ユースケ・サンタマリアの芸名の由来、
モンゴ・サンタマリア(1922~2003)も7月27日に出演した。
この時期、ニューヨーク州サリバン郡ベセル、ホワイトレイクで、
世界初の野外大規模フェスティバルで
ウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェスティバル
が、8月15日~17日にかけて行われた。
有料のイベントだったが、半数は料金も払わず実質無料になってしまい、
『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』
として映像化され、アカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞し、日本でも公開されたことで広く知られている。
その為に夏の音楽フェスの元祖、ウッドストックは有名である。
プロデューサーのハル・タルチン(1926~2017)がそれにあやかって
『ブラック・ウッドストック』と言うタイトルで映像を売ろうとして、映画化に失敗してしまった。
ハーレム・カルチュラル・フェスティバルの存在は、当時まだ根強かった人種差別やプレゼンの失敗も重なって 日本に届かなかった。
こちらも30万人を動員した大イベントだったのに。
それにも関わらず、日本に与えた影響は、間接的に届いた。
(1969年のスティーヴィー・ワンダー イラストby龍女)
そのカギを握っているのが、出演者のひとり、スティーヴィー・ワンダーなのである。
1969年、7月20日。ニューヨークハーレムのマウント・モリス公園の特設ステージに立ったスティーヴィー・ワンダーはミシガン盲学校を6月に卒業したばかりで、大学へ進学しようとしていた。
それは周囲の反対や仕事が多忙だったので実現はかなわなかった。
スティーヴィー・ワンダーがフェスティバルに参加した日は、アポロ11号の打ち上げ当日だった。
人類が初めて月に降りた喜びを表したアメリカ国民はいた。
このフェスティバルに参加した観客は、宇宙開発に多額な予算をかけるよりも黒人層を始めとするハーレム地区に住む貧困層の生活向上に予算を欲しいという意見を持った人々が多かった。
アメリカに住むアフリカ系は人種差別により選挙権が無かった。
自分たちの生活を改善してくれる政治家を選ぶ権利を勝ち取るための公民権運動が盛んだったのが60年代。
コミュティーの中心であるキリスト教の教会の牧師が活動の中心にいた。
その代表的な一人マーティン・ルーサー・キングJrが1968年の4月4日に暗殺された。
その怒りはすさまじく、翌日からアメリカ各地で暴動が起こった。
アフリカ系の貧困層が数多く住んでいたニューヨーク州のハーレムでもそれが例外では無かった。
無名のラウンジシンガーで司会をしていたトニー・ローレンスが主催者となり、当時のニューヨーク市の市長ジョン・リンゼイ(1921~2000)が保証人のような形で音楽フェスティバルは実現できた。
無料の音楽フェスティバルは、政治家の立場から観れば、暴動抑止を目的として、都合がよかった面もあろう。
ハーレムに住んでいる移民たちのルーツにつながる様々なジャンルの出演者たちを直接観ること。
観客の殆どのアフリカ系に自分たちの文化の素晴らしさを啓蒙することに繋がった。
暴動の根本的な感情の「絶望」をなんとか「希望」へ向かわせる何かは残したようだ。
余談として、
このフェスティバルには、ユースケ・サンタマリアの芸名の由来、
モンゴ・サンタマリア(1922~2003)も7月27日に出演した。
この時期、ニューヨーク州サリバン郡ベセル、ホワイトレイクで、
世界初の野外大規模フェスティバルで
ウッドストック・ミュージック・アンド・アート・フェスティバル
が、8月15日~17日にかけて行われた。
有料のイベントだったが、半数は料金も払わず実質無料になってしまい、
『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』
として映像化され、アカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞し、日本でも公開されたことで広く知られている。
その為に夏の音楽フェスの元祖、ウッドストックは有名である。
プロデューサーのハル・タルチン(1926~2017)がそれにあやかって
『ブラック・ウッドストック』と言うタイトルで映像を売ろうとして、映画化に失敗してしまった。
ハーレム・カルチュラル・フェスティバルの存在は、当時まだ根強かった人種差別やプレゼンの失敗も重なって 日本に届かなかった。
こちらも30万人を動員した大イベントだったのに。
それにも関わらず、日本に与えた影響は、間接的に届いた。
(1969年のスティーヴィー・ワンダー イラストby龍女)
そのカギを握っているのが、出演者のひとり、スティーヴィー・ワンダーなのである。
1969年、7月20日。ニューヨークハーレムのマウント・モリス公園の特設ステージに立ったスティーヴィー・ワンダーはミシガン盲学校を6月に卒業したばかりで、大学へ進学しようとしていた。
それは周囲の反対や仕事が多忙だったので実現はかなわなかった。
スティーヴィー・ワンダーがフェスティバルに参加した日は、アポロ11号の打ち上げ当日だった。
人類が初めて月に降りた喜びを表したアメリカ国民はいた。
このフェスティバルに参加した観客は、宇宙開発に多額な予算をかけるよりも黒人層を始めとするハーレム地区に住む貧困層の生活向上に予算を欲しいという意見を持った人々が多かった。