8月22日は『寺内貫太郎一家』の脚本で知られる向田邦子が飛行機事故で亡くなってから40年目。彼女の人生を振り返ってみた
①売れっ子になるまで
(20代の向田邦子の写真から引用 イラストby龍女)
このイラストの元になったのは、ある男性が撮影した写真群から選んだ。
実践女子専門学校(現実践女子大学)国語科を卒業した後、20代半ばに出逢っている写真家のN氏が撮影した。
N氏は10歳以上年上の男性で妻子がいた。当初は不倫だったようだ。
社長秘書から映画雑誌を出版する雄鶏社に記者として転職した頃、いよいよ向田邦子の脚本家修業が始まる。
N氏との手紙のやりとりが詳しく書かれている向田邦子の恋文 (新潮文庫)によれば、脚本を学ぶためにテキストにした作品が登場する。
(NHKアーカイブスより引用 イラストby龍女)
橋本忍(1918~2018)が書いた1962年9月に公開された映画『切腹』。
橋本忍は、構成の鬼と呼ばれた脚本家で、なんと脚本のデビュー作が黒澤明の『羅生門』である。
向田邦子は、
「逆立ちしても、こういうピタリと構成や計算のとどいたものは、私には書けないでしょう」
と弱音を吐いている。
(昭和38年頃?の森繁久彌の写真から引用。元の写真の左隣には向田邦子も写っている イラストby龍女)
この恋文が書かれた昭和38年頃は、ラジオドラマ『重役読本』を書いていた時期だ。
彼女は脚本家としては森繁久彌(1913~2009)の座付き作家から始まった。
TVドラマで売れる最初のきっかけとなった『七人の孫』も森繁久彌の主演である。
『七人の孫』が始まってすぐに昭和39年の2月に向田邦子とN氏の交際は突然終わりを告げる。
N氏が自殺したのだ。
向田邦子が残した恋文が5通が書かれたころ、N氏は脳卒中で余り動ける状態では無かった。
邦子は多忙な放送作家の活動を抜けて足繁くN氏の自宅に通っていたようだ。
向田邦子の恋文の著者である妹の向田和子は、N氏の死の直後、放心状態の姉を観て声をかけられなかったそうだ。
テレビドラマ脚本家向田邦子の代表作は、これ以降の話になってくる。
次にその一部を紹介していく。
(20代の向田邦子の写真から引用 イラストby龍女)
このイラストの元になったのは、ある男性が撮影した写真群から選んだ。
実践女子専門学校(現実践女子大学)国語科を卒業した後、20代半ばに出逢っている写真家のN氏が撮影した。
N氏は10歳以上年上の男性で妻子がいた。当初は不倫だったようだ。
社長秘書から映画雑誌を出版する雄鶏社に記者として転職した頃、いよいよ向田邦子の脚本家修業が始まる。
N氏との手紙のやりとりが詳しく書かれている向田邦子の恋文 (新潮文庫)によれば、脚本を学ぶためにテキストにした作品が登場する。
(NHKアーカイブスより引用 イラストby龍女)
橋本忍(1918~2018)が書いた1962年9月に公開された映画『切腹』。
橋本忍は、構成の鬼と呼ばれた脚本家で、なんと脚本のデビュー作が黒澤明の『羅生門』である。
向田邦子は、
「逆立ちしても、こういうピタリと構成や計算のとどいたものは、私には書けないでしょう」
と弱音を吐いている。
(昭和38年頃?の森繁久彌の写真から引用。元の写真の左隣には向田邦子も写っている イラストby龍女)
この恋文が書かれた昭和38年頃は、ラジオドラマ『重役読本』を書いていた時期だ。
彼女は脚本家としては森繁久彌(1913~2009)の座付き作家から始まった。
TVドラマで売れる最初のきっかけとなった『七人の孫』も森繁久彌の主演である。
『七人の孫』が始まってすぐに昭和39年の2月に向田邦子とN氏の交際は突然終わりを告げる。
N氏が自殺したのだ。
向田邦子が残した恋文が5通が書かれたころ、N氏は脳卒中で余り動ける状態では無かった。
邦子は多忙な放送作家の活動を抜けて足繁くN氏の自宅に通っていたようだ。
向田邦子の恋文の著者である妹の向田和子は、N氏の死の直後、放心状態の姉を観て声をかけられなかったそうだ。
テレビドラマ脚本家向田邦子の代表作は、これ以降の話になってくる。
次にその一部を紹介していく。