歴史の波に翻弄された絵画の物語
こんにちは、いまトピアート部のyamasanです。
前回はラストエンペラー、宣統帝(愛新覚羅溥儀)ゆかりの地を訪ねてみましたが、今回はラストエンペラーとともに数奇な運命をたどった中国の名画をご紹介したいと思います。
前回のコラムはこちらです⇒「ラストエンペラー」の足跡を訪ねて
映画DVD「ラストエンペラー」
今回訪れるのは、中国東北部・遼寧省の省都、瀋陽にある遼寧省博物館。
11万5000件余りの文化財の所蔵を誇る遼寧省博物館の特徴の一つは、溥儀によって紫禁城から持ち出され、満州国崩壊後、日本に逃亡しようとしたときに持っていた書画や、民間に散逸した書画を収蔵していることです。
最初にご紹介するのが、政治よりも芸術を愛し、自らも書画の大家であった「風流天子」、北宋第8代皇帝・徽宗(在位1100-25)の《瑞鶴図》。
この《瑞鶴図》は、1908年に3歳で即位後、1912年に辛亥革命によって退位したあとも紫禁城にとどまることを許されていた溥儀が、軍閥のクーデターで紫禁城を追放されて天津に逃れる時に持ち出した名画の一つです。
徽宗《瑞鶴図》遼寧省博物館
《瑞鶴図》は、数少ない貴重な徽宗の真筆で、絵の左側は「痩金体」で書かれた徽宗自筆の題詩。細くて力強い線が特徴の「痩金体」は徽宗自らが考案した書体です。
徽宗《瑞鶴図》遼寧省博物館
宮殿の上に鶴の群れが舞う姿に国の繁栄を見て、喜んで描いた徽宗ですが、のちに北宋は北方から攻めてきた金に滅ぼされ(1126-27 靖康の変)、徽宗は他の皇族らとともに金に囚われの身となってしまいました。
同じ皇帝として徽宗の絵を愛した溥儀ですが、まさか自分が徽宗と同じ運命をたどるとは夢にも思わなかったことでしょう。
映画「ラストエンペラー」でも、1945年、満州国崩壊とともに軍用機で日本に脱出しようとした溥儀が、北から攻めてきたソ連兵に囚われるスリリングな場面が描かれていました。
北宋の都汴梁(現在の開封)の繁栄ぶりを描いた張択端の《清明上河図》も《瑞鶴図》と同じ運命をたどり、東北博物館(現在の遼寧省博物館)に収蔵されていたのですが、のちに北京故宮博物院に里帰りしました。
これは、北宋滅亡後、金の手に渡り、流転の旅を続けた《清明上河図》にとって四度目の紫禁城(北京故宮博物院)入りでした。
そして《清明上河図》は、今では中国の顔。北京首都国際空港のゲートを出ると、この名画がお出迎えしてくれます。
さて、遼寧省博物館に戻ります。こちらは明時代に江南地方の蘇州で活躍した「呉門四家」(沈周、文徴明、唐寅、仇英)のひとり、仇英の《清明上河図》。
これは、同時代の江南地方の都市と農村の賑わいが描かれたもので、いかにも仇英らしい青緑山水で絵巻は始まります。
仇英《清明上河図》(部分)遼寧省博物館
それにしてもこの細かい描写に驚かされます。いったい何人の人物が描かれているのでしょうか。
仇英《清明上河図》(部分)遼寧省博物館
中国名画揃いの遼寧省博物館なので、紹介したい作品はいくつもあるのですが、これは、という作品をもう一点。
東晋時代(317-420)に活躍した人物画の名手、顧愷之の《洛神賦図》です。
顧愷之《洛神賦図》宋代模本(部分)遼寧省博物館
残念ながら真筆は失われてしまいましたが、宋代の模本が四巻現存していて、遼寧省博物館のほかに、北京故宮博物院に二巻、アメリカのフリーア美術館に一巻所蔵されています。
《洛神賦図》は、三国時代の魏の創始者曹操の子で、詩人曹植の神秘的な恋物語『洛神賦』を描いた絵巻です。
遼寧省博物館は書画だけではありません。
古代の青銅器や玉器も、書も、仏像も、陶磁器も、歴代王朝の貨幣も充実。一日いても時間が足りないくらいです。
展示風景
さらに、遼寧省博物館の大きな特徴は、先史時代から満州族の時代まで、中国東北地方の歴史をジオラマでたどれること。ジオラマファンにはたまらない展示です。
ヌルハチ(在位1616-26)が後金(のちの清朝)を建国して、1616年に都を置いたのが瀋陽でした(当時は盛京)。
今も当時の面影が残る城門「懐遠門」(大西門)。
瀋陽までは成田空港から3時間半のフライト。
いつか安心して海外にも行かれるようになったら、たっぷりと時間をとって見てみたいミュージアムの一つです。
ミュージアムショップに日本語版の図録があったので、記念に買って帰りました。
日本でも見られる中国の名画のご紹介はこちらです⇒トーハクで見たい中国の名画五選
前回はラストエンペラー、宣統帝(愛新覚羅溥儀)ゆかりの地を訪ねてみましたが、今回はラストエンペラーとともに数奇な運命をたどった中国の名画をご紹介したいと思います。
前回のコラムはこちらです⇒「ラストエンペラー」の足跡を訪ねて
映画DVD「ラストエンペラー」
今回訪れるのは、中国東北部・遼寧省の省都、瀋陽にある遼寧省博物館。
11万5000件余りの文化財の所蔵を誇る遼寧省博物館の特徴の一つは、溥儀によって紫禁城から持ち出され、満州国崩壊後、日本に逃亡しようとしたときに持っていた書画や、民間に散逸した書画を収蔵していることです。
徽宗《瑞鶴図》
最初にご紹介するのが、政治よりも芸術を愛し、自らも書画の大家であった「風流天子」、北宋第8代皇帝・徽宗(在位1100-25)の《瑞鶴図》。
この《瑞鶴図》は、1908年に3歳で即位後、1912年に辛亥革命によって退位したあとも紫禁城にとどまることを許されていた溥儀が、軍閥のクーデターで紫禁城を追放されて天津に逃れる時に持ち出した名画の一つです。
徽宗《瑞鶴図》遼寧省博物館
《瑞鶴図》は、数少ない貴重な徽宗の真筆で、絵の左側は「痩金体」で書かれた徽宗自筆の題詩。細くて力強い線が特徴の「痩金体」は徽宗自らが考案した書体です。
徽宗《瑞鶴図》遼寧省博物館
宮殿の上に鶴の群れが舞う姿に国の繁栄を見て、喜んで描いた徽宗ですが、のちに北宋は北方から攻めてきた金に滅ぼされ(1126-27 靖康の変)、徽宗は他の皇族らとともに金に囚われの身となってしまいました。
同じ皇帝として徽宗の絵を愛した溥儀ですが、まさか自分が徽宗と同じ運命をたどるとは夢にも思わなかったことでしょう。
映画「ラストエンペラー」でも、1945年、満州国崩壊とともに軍用機で日本に脱出しようとした溥儀が、北から攻めてきたソ連兵に囚われるスリリングな場面が描かれていました。
仇英《清明上河図》
北宋の都汴梁(現在の開封)の繁栄ぶりを描いた張択端の《清明上河図》も《瑞鶴図》と同じ運命をたどり、東北博物館(現在の遼寧省博物館)に収蔵されていたのですが、のちに北京故宮博物院に里帰りしました。
これは、北宋滅亡後、金の手に渡り、流転の旅を続けた《清明上河図》にとって四度目の紫禁城(北京故宮博物院)入りでした。
そして《清明上河図》は、今では中国の顔。北京首都国際空港のゲートを出ると、この名画がお出迎えしてくれます。
さて、遼寧省博物館に戻ります。こちらは明時代に江南地方の蘇州で活躍した「呉門四家」(沈周、文徴明、唐寅、仇英)のひとり、仇英の《清明上河図》。
これは、同時代の江南地方の都市と農村の賑わいが描かれたもので、いかにも仇英らしい青緑山水で絵巻は始まります。
仇英《清明上河図》(部分)遼寧省博物館
それにしてもこの細かい描写に驚かされます。いったい何人の人物が描かれているのでしょうか。
仇英《清明上河図》(部分)遼寧省博物館
顧愷之《洛神賦図》宋代模本
中国名画揃いの遼寧省博物館なので、紹介したい作品はいくつもあるのですが、これは、という作品をもう一点。
東晋時代(317-420)に活躍した人物画の名手、顧愷之の《洛神賦図》です。
顧愷之《洛神賦図》宋代模本(部分)遼寧省博物館
残念ながら真筆は失われてしまいましたが、宋代の模本が四巻現存していて、遼寧省博物館のほかに、北京故宮博物院に二巻、アメリカのフリーア美術館に一巻所蔵されています。
《洛神賦図》は、三国時代の魏の創始者曹操の子で、詩人曹植の神秘的な恋物語『洛神賦』を描いた絵巻です。
遼寧省博物館は書画だけではありません。
古代の青銅器や玉器も、書も、仏像も、陶磁器も、歴代王朝の貨幣も充実。一日いても時間が足りないくらいです。
展示風景
さらに、遼寧省博物館の大きな特徴は、先史時代から満州族の時代まで、中国東北地方の歴史をジオラマでたどれること。ジオラマファンにはたまらない展示です。
ヌルハチ(在位1616-26)が後金(のちの清朝)を建国して、1616年に都を置いたのが瀋陽でした(当時は盛京)。
今も当時の面影が残る城門「懐遠門」(大西門)。
瀋陽までは成田空港から3時間半のフライト。
いつか安心して海外にも行かれるようになったら、たっぷりと時間をとって見てみたいミュージアムの一つです。
ミュージアムショップに日本語版の図録があったので、記念に買って帰りました。
日本でも見られる中国の名画のご紹介はこちらです⇒トーハクで見たい中国の名画五選