【ライバル激突】巨匠たちの対決!!

2020/4/27 21:00 yamasan yamasan

1 ライバル激突!


「はせ川と申す者に内裏の対屋の襖絵を描かせることにしたのは迷惑である。」

狩野一門を率いる狩野永徳が嫡男の光信と弟の宗秀を連れて勧修寺晴豊を訪ね、このような申し出をしたのは天正18年(1590年)8月8日のこと。

本能寺の変で織田信長が倒れてはや8年。世は豊臣秀吉の天下。
一門の総力を挙げて制作した安土城は無残にも城もろとも焼け落ちたものの、その後、永徳は秀吉に取り入られ、秀吉が手がけた大坂城や聚楽第の障壁画制作を任され、さらにこの前年に始まった御所の造営事業でも施設の障壁画制作を担当することになり、御用絵師としての狩野派の地位を確かなものとしてきました。

力強さみなぎる国宝《檜図屏風》(東京国立博物館)。永徳最晩年の作品です。


ところが、寝殿の付属施設にあたる「対屋(たいのや)」の障壁画は「はせ川と申す者」に制作させると聞いた永徳は、公家として公武の橋渡し役を担う「武家伝奏」の職に就いていた勧修寺晴豊に、御所の造営奉行の前田玄以に働きかけて、それを阻止するよう依頼したのです。

「はせ川と申す者」とは、この前年に大徳寺三門の天井画や大徳寺塔頭・三玄院の障壁画を描き、絵師として台頭してきた長谷川等伯のこと。当時すでに等伯は、永徳をおそれさせるほどの実力をもっていたことがうかがえます。

大徳寺三門。この二階部分の天井や柱に龍や迦陵頻伽(かりょうびんが) ほかの絵が描かれています(普段は非公開)。


(三玄院の障壁画は、現在では高台寺圓徳院に全36面のうち32面、樂美術館に4面が所蔵されています。)

永徳の作戦は成功しました。
勧修寺晴豊を訪れた5日後の8月13日、永徳らはふたたび晴豊のもとに参上して礼を述べ、晴豊は永徳らに酒をふるまいました。

以上が、等伯と永徳について語るときに必ずといっていいほど出てくるエピソードで、勧修寺晴豊の日記『晴豊記』に記述があります。流ちょうなくずし字の晴豊の直筆は、国立国会図書館デジタルコレクションで『晴豊記』と入力して検索すると見ることができます⇒国立国会図書館デジタルコレクション検索画面


2 "Stay home"で「絵師もの」時代小説を読もう!


現在は新型コロナウィルスの影響で、美術館・博物館、寺院などの多くは、臨時休業や拝観休止の状況が続いています(開館情報については公式サイトなどでご確認ください)。
こういった中、アートファンのみなさまはいろいろ工夫されて"Stay home"でアートを楽しまれているかと思いますが、こういった機会に桃山の巨匠たちの生きざまを描いた小説を読んでみてはいかがでしょうか。
そこで今回紹介するのは、安部龍太郎著『等伯 上下』(文春文庫)と、狩野永徳が主人公の山本兼一著『花鳥の夢』(文春文庫)



「絵師もの」時代小説は、今までもいまトピで紹介していますので、こちらもぜひご覧になってください。

長沢芦雪と曽我蕭白の絡みが面白い『ごんたくれ』はこちら
南紀で何があったのか?【奇想の絵師・長沢芦雪の旅路をたどってみた】

海北友松を生き生きと描いた『墨龍賦』はこちら
【大迫力!】建仁寺のあの雲龍の正体は〇〇だった!

狩野永徳長谷川等伯
絵に命をかけた二人の巨匠をそれぞれの視点から描いた二つの小説を読むと、二人の生きざまが頭の中で一つの時代劇みたいに合成されて、映像が目の前に浮かび上がってくるように感じられました。

3 その後の永徳と等伯


この「対屋事件」のわずか1か月後の9月14日、永徳は48歳の若さで亡くなりました。狩野一門の棟梁としての責任感からあまりに多くの仕事を引き受けたため、過労死ではないかとも言われています。

永徳のあと狩野派を継いだのは嫡男の光信。父・永徳の力強くて豪快な画風とは異なり、やまと絵風の優美な絵を得意としていたので、父と比較されて「下手(へた)右京」と言われていましたが、残された絵を見ると決して「下手」ではありません。

代表作の一つは、近江八景「三井の晩鐘」で知られた三井寺(天台寺門宗総本山園城寺)勧学院客殿の障壁画。
現在は、三井寺文化財収蔵庫で見ることができます。


こちらは勧学院客殿に収まっていたときの様子を撮影した絵葉書。上が《四季花卉図》、下が《花鳥図(重要文化財)》。いずれも狩野光信の筆によるものです。


一方の等伯。
御所の仕事は狩野一門に取られてしまいましたが、秀吉の寵愛を失うことはありませんでした。
翌天正19年(1581年)に秀吉の愛児・鶴松が幼くして亡くなると、その菩提を弔うため秀吉が着工した祥雲寺の障壁画を任され、嫡男・久蔵とともにその腕をふるいました。

国宝《楓図壁貼付》(長谷川等伯)はじめ、桃山を代表する豪華絢爛な障壁画は、今では智積院収蔵庫で見ることができます。
こちらは2010年に東京国立博物館で開催された「没後400年特別展 長谷川等伯」のチラシにある《楓図壁貼付》。


順風満帆そうに見えた等伯でしたが、その等伯にも大きな不幸が襲いかかりました。祥雲寺障壁画完成直前の文禄2年(1593年)6月、嫡男・久蔵が26歳の若さで急逝したのです。
等伯は、久蔵の七回忌に京都・堀川寺之内にある本法寺に縦約10メートル、横約6メートルもある大きな《仏涅槃図(重要文化財)》を寄進しました。
普段は収蔵庫に原寸大の複製が展示されていますが、毎年春には真筆が展示されるので、ぜひ拝観してみてはいかがでしょうか⇒本法寺

失意の等伯は、その後も妙心寺隣華院の《山水図襖》、大徳寺真珠庵客殿の《商山四晧図襖》《蜆子猪頭図襖》など、後世に残る名作を描き続けました。

そして、等伯の水墨画といえば、やはり国宝《松林図屏風》(東京国立博物館)。
東京国立博物館の新春の国宝室ですっかりおなじみの《松林図屏風》ですが、同じく東京国立博物館が所蔵する高精細複製画も、こうやってろうそくと同じ明るさの中、畳の上に座って見ると、味わい深いものがあります。



時は流れて、徳川の世に移った慶長15年(1610年)。
江戸に旅立った等伯は、その途上で病を得て、江戸で72歳の生涯を終えました。
先ほど紹介した本法寺の境内には、旅姿の等伯の像があります。
左手に筆を持ち、はるか江戸の方角を望んでいる姿を見ると、年老いてもなお新たな境地を切り開いていこうという気概に満ちているように思えました。