【大迫力!】建仁寺のあの雲龍の正体は〇〇だった!
すっかり時代小説の一つのジャンルを占めるようになった感のある(?)「絵師もの」。
長谷川等伯、狩野永徳、伊藤若冲はじめ、名だたる絵師たちの小説はどれも興味深いのですが、今回紹介するのは、今年(2020年)のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」にちなんで、時代背景も登場人物もほぼ似通っている葉室麟『墨龍賦』(PHP文芸文庫 2019年)。
(長沢芦雪と曽我蕭白のバトルが繰り広げられる西条奈加著『ごんたくれ』は、こちらのコラムで紹介しています。)
南紀で何があったのか?【奇想の絵師・長沢芦雪の旅路をたどってみた】
葉室麟『墨龍賦』
『墨龍賦』の主人公は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての激動の時代に活躍した絵師・海北友松(1533-1615)。
海北友松とはどんな絵師?
2017年に京都国立博物館で海北友松展が開催されました。そのときのポスターやチラシの表紙を飾ったのは、京都建仁寺大方丈の雲龍。キャッチコピーは「この絵師、ただものではない!」。
このキャッチコピーのとおり、小説『墨龍賦』でも、「ただものではない」海北友松の壮絶な人生が描かれています。
海北友松は、近江の戦国大名、浅井長政の重臣・海北綱親の五男(または三男)として生まれましたが、幼いころより出家して京都・東福寺で修業していました。当時、武家では、万が一の時に備えて血筋を絶やさないように、一族の中から一人を仏門に入れることはよく行われていることでした。
紅葉時には観光客であふれる東福寺の通天橋
僧になった友松ですが、『墨龍賦』では、還俗して武士になるか、絵師になるか迷っている姿が描かれています。
そんな友松に決定的な言葉を投げかけたのは、若くして頭角を現していた狩野源四郎(のちの永徳)(1543-1590)。
「友松は相変わらず、覚悟が足らんな。還俗して武士になろうか絵師になろうかと迷うてるんやろけど、武士も絵師もどっちも修羅の道やゆうことを心得とかんと、とんだしくじりをするぞ。」
友松は目を鋭くした。
「絵師もまた、修羅の道と言われるか」
「そないことも心得ずに絵を描いているんか。武士は槍や弓矢、刀で戦うけど絵師は絵筆で戦う。おのれが思う絵が描けるかどうかは戦とおんなじや」
(『墨龍賦』P124-125より)
絵師の修業を積むため狩野門下に入るかどうか悩んでいた友松のもとに、衝撃的な知らせが飛び込んできました。
天正元年(1573)9月1日、浅井長政の居城、小谷城が織田信長の猛攻により落城、浅井家とともに海北家も滅亡したのです。
そこで、信長打倒のためにいずれ還俗して武士になろうと決心した友松ですが、「ある企て」があってそれまでは狩野門下に入ることにしました。
物語はさらに続き、友松は、ある事件がきっかけとなって知り合い、のちに生涯の友となった斎藤内蔵助、そして内蔵助が仕えた明智光秀に打倒信長を託すことになりました。
そして、友松の願いどおり、天正10年(1582)6月2日、信長は京都・本能寺で光秀によって討たれましたが、光秀と内蔵助のその後の運命は・・・・。
その後、時は過ぎて友松が建仁寺大方丈に雲龍図をはじめとした障壁画を描いたいのは慶長4年(1599)。
一番有名なのは、玄関に最も近い「礼之間」に描かれた《雲龍図》。
現在、大方丈の障壁画はすべて高精細複製画に置き換えられていますが、それでもやはりお寺の部屋の中に納まっていると、このとおりしっくりきます。
建仁寺は何回も訪れているのですが、このときは部屋の中に入って目の前で迫力ある雲龍を見ることができました。
これだけ近くだと、鼻毛もばっちり見えて、荒い鼻息に吹き飛ばされそう。
龍の爪もこんなに大きくて、今にもグイッとつかまれそう。
他にも、書院之間には《花鳥図》、仏壇のある室中には《竹林七賢図》、檀那之間には《山水図》、衣鉢之間には《琴棋書画図》が描かれています。
こちらは衣鉢之間の《琴棋書画図》。
戦乱の中、荒廃していた建仁寺の再建を任されていたのが、友松と同じく若いころ東福寺で修業をしていて、その後、毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊(えけい)。
再び小説『墨龍賦』に戻ります。
〈雲竜図〉の前に立った恵瓊は、
「まことに見事じゃ。しかし、何とのう、懐かしく思えるのはなぜであろうか。」
とつぶやいた。
「それはかつて恵瓊殿が会われたことがあるからであろう」
友松はさりげなく言った。
「わたしが会ったことがあるとはどういうことです」
恵瓊は振り向いた。
友松は〈雲竜図〉を見つめながら、
「この絵には武人の魂を込めました。されば、恵瓊殿がこれまで会った武人たちを思い出されるのではございませんか。(略)」
と言い添えた。
「なるほど、そういうことか。だとすると、友松殿がこの絵の双龍に込めた武人の魂とは彼(か)のひとたちでございましょう」
「誰だと思われるのですか」
友松は微笑んで恵瓊を見つめた。
恵瓊はちらりと友松を見てから、ふたりの武人の名を口にした。
(『墨龍賦』P293-294より)
続きはぜひ『墨龍賦』をお読みください。
さて、この《雲龍図》をはじめとした大方丈の障壁画ですが、実は危うく「失われたアート」になるところでした。
昭和9年(1934)の第一室戸台風で大方丈が倒壊したとき、襖はほかの用件で外していたため難をのがれたのでした。その後、障壁画はすべて掛け軸に改装され、現在では京都国立博物館に保管されています。
「失われたアート」に興味のあるアートファンにおススメの本はこちらです。
『失われたアートの謎を解く』(ちくま新書)青い日記帳(監修)
《風神雷神図屏風》もお見逃しなく!
建仁寺といえば、やはり見逃してはいけないのが、俵屋宗達の国宝《風神雷神図屛風》。
こちらも本物は京都国立博物館に寄託されていますが、この高精細複製画もご覧のとおりの出来のよさです。
このときは大方丈の室中に展示されていました。
国宝《風神雷神図屛風》は、特に気に入ったので、家にお持ち帰りして飾っています。
これは、建仁寺でいただいたパンフレットを切り抜いて、一回り大きめの黒い画用紙に張り付けて縁取りをして、畳のミニチュアの上に置いたものです。
よく見ると風神雷神図の中央にはアルファベットで「KENNINJI」。「建仁寺」のプレートもパンフレットから。
画用紙も、ミニチュアの畳も、コレクションケースも近くのダイソーで購入したものです。
ミニチュアの畳は、和のものをディスプレイするのにちょうどいいのですが、最近見かけなくなってしまいました。 こういったおしゃれな小物は、ぜひ復活してほしいですね。
(最近ではセリアで1畳と半畳のミニチュア畳が売られているので時々購入してます。(2022年2月現在))
長谷川等伯、狩野永徳、伊藤若冲はじめ、名だたる絵師たちの小説はどれも興味深いのですが、今回紹介するのは、今年(2020年)のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」にちなんで、時代背景も登場人物もほぼ似通っている葉室麟『墨龍賦』(PHP文芸文庫 2019年)。
(長沢芦雪と曽我蕭白のバトルが繰り広げられる西条奈加著『ごんたくれ』は、こちらのコラムで紹介しています。)
南紀で何があったのか?【奇想の絵師・長沢芦雪の旅路をたどってみた】
葉室麟『墨龍賦』
『墨龍賦』の主人公は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての激動の時代に活躍した絵師・海北友松(1533-1615)。
海北友松とはどんな絵師?
2017年に京都国立博物館で海北友松展が開催されました。そのときのポスターやチラシの表紙を飾ったのは、京都建仁寺大方丈の雲龍。キャッチコピーは「この絵師、ただものではない!」。
このキャッチコピーのとおり、小説『墨龍賦』でも、「ただものではない」海北友松の壮絶な人生が描かれています。
海北友松は、近江の戦国大名、浅井長政の重臣・海北綱親の五男(または三男)として生まれましたが、幼いころより出家して京都・東福寺で修業していました。当時、武家では、万が一の時に備えて血筋を絶やさないように、一族の中から一人を仏門に入れることはよく行われていることでした。
紅葉時には観光客であふれる東福寺の通天橋
僧になった友松ですが、『墨龍賦』では、還俗して武士になるか、絵師になるか迷っている姿が描かれています。
そんな友松に決定的な言葉を投げかけたのは、若くして頭角を現していた狩野源四郎(のちの永徳)(1543-1590)。
「友松は相変わらず、覚悟が足らんな。還俗して武士になろうか絵師になろうかと迷うてるんやろけど、武士も絵師もどっちも修羅の道やゆうことを心得とかんと、とんだしくじりをするぞ。」
友松は目を鋭くした。
「絵師もまた、修羅の道と言われるか」
「そないことも心得ずに絵を描いているんか。武士は槍や弓矢、刀で戦うけど絵師は絵筆で戦う。おのれが思う絵が描けるかどうかは戦とおんなじや」
(『墨龍賦』P124-125より)
絵師の修業を積むため狩野門下に入るかどうか悩んでいた友松のもとに、衝撃的な知らせが飛び込んできました。
天正元年(1573)9月1日、浅井長政の居城、小谷城が織田信長の猛攻により落城、浅井家とともに海北家も滅亡したのです。
そこで、信長打倒のためにいずれ還俗して武士になろうと決心した友松ですが、「ある企て」があってそれまでは狩野門下に入ることにしました。
物語はさらに続き、友松は、ある事件がきっかけとなって知り合い、のちに生涯の友となった斎藤内蔵助、そして内蔵助が仕えた明智光秀に打倒信長を託すことになりました。
そして、友松の願いどおり、天正10年(1582)6月2日、信長は京都・本能寺で光秀によって討たれましたが、光秀と内蔵助のその後の運命は・・・・。
その後、時は過ぎて友松が建仁寺大方丈に雲龍図をはじめとした障壁画を描いたいのは慶長4年(1599)。
一番有名なのは、玄関に最も近い「礼之間」に描かれた《雲龍図》。
現在、大方丈の障壁画はすべて高精細複製画に置き換えられていますが、それでもやはりお寺の部屋の中に納まっていると、このとおりしっくりきます。
建仁寺は何回も訪れているのですが、このときは部屋の中に入って目の前で迫力ある雲龍を見ることができました。
これだけ近くだと、鼻毛もばっちり見えて、荒い鼻息に吹き飛ばされそう。
龍の爪もこんなに大きくて、今にもグイッとつかまれそう。
他にも、書院之間には《花鳥図》、仏壇のある室中には《竹林七賢図》、檀那之間には《山水図》、衣鉢之間には《琴棋書画図》が描かれています。
こちらは衣鉢之間の《琴棋書画図》。
戦乱の中、荒廃していた建仁寺の再建を任されていたのが、友松と同じく若いころ東福寺で修業をしていて、その後、毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊(えけい)。
再び小説『墨龍賦』に戻ります。
〈雲竜図〉の前に立った恵瓊は、
「まことに見事じゃ。しかし、何とのう、懐かしく思えるのはなぜであろうか。」
とつぶやいた。
「それはかつて恵瓊殿が会われたことがあるからであろう」
友松はさりげなく言った。
「わたしが会ったことがあるとはどういうことです」
恵瓊は振り向いた。
友松は〈雲竜図〉を見つめながら、
「この絵には武人の魂を込めました。されば、恵瓊殿がこれまで会った武人たちを思い出されるのではございませんか。(略)」
と言い添えた。
「なるほど、そういうことか。だとすると、友松殿がこの絵の双龍に込めた武人の魂とは彼(か)のひとたちでございましょう」
「誰だと思われるのですか」
友松は微笑んで恵瓊を見つめた。
恵瓊はちらりと友松を見てから、ふたりの武人の名を口にした。
(『墨龍賦』P293-294より)
続きはぜひ『墨龍賦』をお読みください。
さて、この《雲龍図》をはじめとした大方丈の障壁画ですが、実は危うく「失われたアート」になるところでした。
昭和9年(1934)の第一室戸台風で大方丈が倒壊したとき、襖はほかの用件で外していたため難をのがれたのでした。その後、障壁画はすべて掛け軸に改装され、現在では京都国立博物館に保管されています。
「失われたアート」に興味のあるアートファンにおススメの本はこちらです。
『失われたアートの謎を解く』(ちくま新書)青い日記帳(監修)
《風神雷神図屏風》もお見逃しなく!
建仁寺といえば、やはり見逃してはいけないのが、俵屋宗達の国宝《風神雷神図屛風》。
こちらも本物は京都国立博物館に寄託されていますが、この高精細複製画もご覧のとおりの出来のよさです。
このときは大方丈の室中に展示されていました。
国宝《風神雷神図屛風》は、特に気に入ったので、家にお持ち帰りして飾っています。
これは、建仁寺でいただいたパンフレットを切り抜いて、一回り大きめの黒い画用紙に張り付けて縁取りをして、畳のミニチュアの上に置いたものです。
よく見ると風神雷神図の中央にはアルファベットで「KENNINJI」。「建仁寺」のプレートもパンフレットから。
画用紙も、ミニチュアの畳も、コレクションケースも近くのダイソーで購入したものです。
ミニチュアの畳は、和のものをディスプレイするのにちょうどいいのですが、最近見かけなくなってしまいました。 こういったおしゃれな小物は、ぜひ復活してほしいですね。
(最近ではセリアで1畳と半畳のミニチュア畳が売られているので時々購入してます。(2022年2月現在))