大河ドラマ『どうする家康』に佐藤浩市が登場!父・三國連太郎との疎遠の原因とは?息子で俳優の寛一郎がいつ〇〇するかも気になる

2023/8/25 18:00 龍女 龍女

三國連太郎の本名は、佐藤政雄である。

生い立ちは非常に複雑である。
丁寧に説明してしまうとそれだけでノンフィクション小説になってしまう。

未婚の母親が妊娠したまま結婚した別の男性が育ての親で、電気工事の渡り職人だった。
一家で引っ越した父の故郷の静岡県の土肥町(現・伊豆市)で旧制豆陽中学(新学制では高校に相当する)2年生で中退するまで過ごす。
中学時代は水泳部だったそうだ。

旧制中学を中退した後は各地で職を転々とする。
故郷に徴集令状の赤紙が届くと、兵隊になりたくないと逃亡するが憲兵に捕まり静岡歩兵34連隊に配属された。
激戦の中国前線へ送り出され、熱を出して10日間意識不明だったので死んだと思われた。
むしろにかけられ、焼き場に入れられる寸前で意識を取り戻したという。
その連隊で生き残ったのは20~30人とされているので、非常に幸運だったようだ。

終戦後、中国の収容所から帰国するには妻帯者が有利だったので、同じ佐藤姓の女性と1946年に偽装結婚をして帰国した。
その女性とは1948年に離婚した。

1949年に鳥取県倉吉で満蒙開拓団(大日本帝国の植民地、中国東北部にあった満州国の農地を開拓するために結成された団体)の知り合いのツテで、農業指導員になり地元の資産家の娘と2度目の結婚をした。
1950年に闇商売をして単身上京をしていた時の出来事である。
倉吉の写真館の主人が写真を松竹の「あなたの推薦するスター募集」に送っていた。
東銀座で歩いていたところをその写真を覚えていた松竹のプロデューサーの小出孝にスカウトされた。

松竹が誇る映画監督の一人木下恵介(1912~1998)は、小津安二郎とのコンビで知られる脚本家の野田高梧との共同脚本作品
劇作家岸田國士(1890~1954)が原作の小説
『善魔』のある重要な役にピッタリな俳優がいなくなって困っていた。


(木下恵介 イラストby龍女)

当初決まってた岡田英次(1920~1995)は左翼系劇団の新協劇団所属で、1950年に公開された今井正監督の『また逢う日まで』(1950年3月21日公開)で日本映画初のキスシーンをした俳優としても有名である。
ところが今井正監督は日本共産党に入党していた。
そのあおりで、日本共産党支持者とみられていた岡田英次を起用出来なくなってしまった。

朝鮮半島でアメリカとソ連・中国の代理戦争の朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発した。
GHQの指導の下、吉田茂政権は6月6日から本格的な共産党員と支持者の公職追放の動きレッドパージを開始した。

岡田英次は彫りの深い容貌で当時「和製ジャン・マレー」と呼ばれていた2枚目でもある。
ジャン・マレー(1913~1998)とは詩人で映画監督だったジャン・コクトー(1889~1963)の恋人で、『美女と野獣』(1945)の野獣役を始め数々の名作に出演した俳優である。
岡田英次は後にフランス合作映画『二十四時間の情事』(1959)に出演するなど国際的にも活躍した。
筆者は岡田英次が出た映画では、岸田國士の娘の俳優・岸田今日子と共演した安部公房原作の『砂の女』(1964)位しか見ていない。

日本共産党支持者は高学歴の学生が多かったので、余計日本国政府は危険視している面もあった。

三國連太郎の若い頃は慶応大学卒業の岡田英次に似た知性的な2枚目だったのである。

『善魔』のあらすじはこうだ。
上司の命令で、政治家のスキャンダルを追っていた若い新聞記者。
彼は取材先として離婚寸前の政治家の妻の妹に出逢い、恋におちるが彼女は当時の不治の病結核を抱えていた…。
と言う社会派ラブストーリーである。
テーマは人は正義のために時に悪魔のような行動を起こすと言うことで「善魔」だそうだ。


(『善魔』の三國連太郎 イラストby龍女)

この作品で演じた若き新聞記者の役名が三國連太郎だったので、そのまま芸名にした。
三國連太郎は、清濁併せのむ知的な男の役を数多く演じることになるがその原点となったようである。
ただし、ずぶの素人で演技は噴飯物だったので、木下恵介のアドバイスで3ヶ月ほど俳優座に出入りして演技の指導を受けたそうだ。
デビュー作の悔しさが、三國連太郎がその後に役の為なら肉体をいじることも厭わないようになったきっかけをつくった。

三國連太郎が3度目の結婚の時に産まれたのが、佐藤浩市である。
ところがその頃に三國連太郎は『飢餓海峡』(1965)の撮影中に私生活で大事件を起こしてしまった。
太地喜和子(1943~1992)と恋におちてしまったのだ。
太地は俳優を辞め同棲したものの、『飢餓海峡』で左幸子が演じた娼婦の八重に嫉妬して、同棲生活は3ヶ月ほどで破綻してしまった。
三國連太郎の方は「あなたの体にひれ伏すことがイヤだった。僕は臆病者ですから、のめり込む危険を絶対に避けたかったんです」
と十年後の週刊誌の対談で答えている。
一方で「十年後には妻と別れる」と太地の親と交わしていた約束を守って、3回目の離婚をした。
こうした経緯があって、思春期の佐藤浩市は父親とは疎遠になった。
一方で息子と疎遠になってしまった三國連太郎は1972年に『岸のない河』と言う自主映画を製作した。
パキスタン、アフガニスタンでロケをした作品だが未完成である。
家庭を崩壊させた男を三國連太郎自らが演じている。
当て所のない旅に出かけ、自己を再発見しようとする。
この幻の映画を完成させようとするドキュメンタリーがWOWOWで2009年に放送された。
これは筆者も観ている。

小さい頃は三國連太郎は息子の浩市を撮影所へ連れてみせていた。
佐藤浩市は自然と俳優に対する憧れが芽生えたのだろう。

しかし表向きは俳優を積極的になりたいといった態度は示していない。
佐藤浩市は父のマネージャーのすすめで渋々受けたオーディションに合格した。
1980年にNHKドラマ『続・続・事件』でデビューした。
映画デビュー作になる『青春の門』でブルーリボン賞新人賞を受賞した。
原作者の五木寛之の分身、伊吹信介を演じた。
続編の『青春の門・自立編』では初の映画主演を務めた。

三國連太郎とは1986年の『人間の約束』で共演しているが、佐藤浩市は部下の刑事役で少ししか出ていない。

本格的な共演となったのはビックコミックスピリッツで連載されていた長寿連載のグルメ漫画の実写化
『美味しんぼ』(1996)である。

1988年から西田敏行扮する万年ヒラ社員浜崎伝助
三國連太郎扮する上司である鈴木建設の社長鈴木一之助が日本全国で釣りを楽しむ
『釣りバカ日誌』が好評でシリーズ化して8年目になっていた。
これまで演技派だった三國連太郎は映画業界の中でドル箱スターの仲間入りをした。
三國は最初に所属した松竹を辞めてこれといった映画会社に所属しない俳優として問題児扱いを受けながらも映画業界で生き残ってきた。
晩年になって松竹と和解したのだろう。
これはまるで佐藤浩市との関係とよく似ていた。

『美味しんぼ』は小学館の青年漫画誌『ビックコミック』から派生した『ビックコミックスピリッツ』、『釣りバカ日誌』は『ビックコミックオリジナル』に連載されているので、権利関係がクリアで映画化のオファーがしやすかったのだろう。
監督は『釣りバカ日誌スペシャル』の森崎東(1927~2020)が務めることになった。

その流れの企画なので陶芸家で美食家の海原雄山役は三國連太郎と決まっていた。
台本を読んだ時に、息子で母方の姓を名乗り、確執を抱えている東西新聞記者の
山岡士郎役は佐藤浩市がふさわしいだろうと提案したのは、三國連太郎だと言われている。
邦画ファンが待ち望んでいた親子共演が実現した。


(『美味しんぼ』のポスターのリアート イラストby龍女)

原作の『美味しんぼ』を読まれた方なら、お気づきだと思うが三國連太郎は原作の海原雄山に扮装を合わせていない。
これは、海原雄山のモデルになった陶芸家で、「美食倶楽部」の主催者だった
北大路魯山人(1883~1959)に風貌を寄せたからだ。
原作者の雁屋哲(1941年10月6日生れ)は実写化にあたり三國連太郎を望んでいたので、漫画と映画は別物であるという認識は一致していたと思う。
上映時間に対して膨大な原作からピックアップして凝縮して描く媒体なので、究極的に原作に100%忠実な実写化は不可能だ。
制約の中でどうするかが脚色と言われる作業になる。
脚本は土台に過ぎないので、更に細部を担当するのが俳優である。
その中でもキャラクターを担当する俳優は監督と下の立場ではない。別の役割の仲間だ。
監督は作品全体のトーンを決める役割だが、俳優の演技を指導する立場とは限らない。
俳優出身を除いて監督は他の技術スタッフから出世した人物が圧倒的である。
俳優がカメラに収まる様に配置を決めることは出来ても、演技を指導するのは別の仕事だ。
三國連太郎は過去に役に為に前歯を抜いたと言われるほど演技の鬼と言われた人物だ。

私生活では疎遠だった佐藤浩市は映画の中でその父と向き合ったのである。


次の頁では坂元裕二を取り上げたコラムで少しだけ触れた
ある映画から佐藤浩市の出演した名画三本について語ろう。

    次へ

  1. 1
  2. 2
  3. 3