宮崎駿のジブリ最新作『君たちはどう生きるか』で木村拓哉や菅田将暉らが声優で起用されている理由って?宮崎駿が結局伝えたかったこととは
何故、スタジオジブリの作品に選ばれる声優はアニメ・吹替の専門が少ないのか?
アニメファンの賛否の対象になっている。
しかし、作品の背景のリアリティラインとして実写と変わらない基準で俳優を選んでいると考えられる。
最近大河ドラマが、声優で有名な人が出演することも多い。
声優という職業は日本独自で、本来は俳優の仕事に声の出演だけがあるだけだ。
日本の戦後のアニメーションの創成期から関わっている宮崎駿からすれば当然の起用法なのである。
スタジオジブリの名前の由来になったのは、宮崎駿の好きな飛行機の名前でもあるイタリア語で「熱風」を意味する言葉だ。
宮崎駿がこの映画の原案の一つ吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を読んだ戦後間もなくのことである。
同じ頃、イタリアでは映画制作の傾向で
『ネオリアリズモ』と言う潮流があった。
俳優だったヴィットリオ・デ・シーカ(1901~1974)はちょうどこの時期に映画監督デビューしている。
キャリアの前期に演技経験の無い素人を使ってイタリア社会の貧困問題を浮き彫りにした『自転車泥棒』(1948)は第22回アカデミー賞名誉賞を受賞した。
(ウクライナ戦争で撮影場所として再注目された映画『ひまわり』(1970)は、ヴィットリオ・デ・シーカが晩年に撮った作品)
宮崎駿は『君たちはどう生きるか』で自らの作品のセルフパロディを描いている。
ネオリアリズモの終わり頃に監督デビューしたのが漫画家出身の
フェデリコ・フェリーニ(1920~1993)である。
映画監督が映画について描いた『81/2』(はっかにぶんのいち)(1963)はビートたけしの『TAKESHIS'』(2005)に影響を与えるなど数多くの映画監督がキャリアを重ねた後に撮りたい題材を開発した。
これは映画にするネタが無くて、じゃあ映画のネタに悩む映画監督の話しにしようと思いついた苦肉の策である。
『風立ちぬ』を引退作にしようと思った宮崎駿が再び映画に取り組もうと思ったのは、あるアイデアを思いついたからだ。
もう一つの原案ジョン・コナリー『失われたものたちの本』の主人公の設定を自分の経験に置き換えるアイデアが湧いてきたからである。
『君たちはどう生きるか』に影響を受けた少年の地獄巡りの旅と言う構造である。
これが結果的に宮崎駿が過去に出演した俳優陣を再結集させて、自らの作品群を一つの作品に集約させる
映画による「もう一つのジブリ美術館」を作った。
後半は殆どでシュールレアリズムの絵画が動いているような、訳の分からない展開になるのはその理由がある。
そこに初めて参加する俳優を配置して、ジブリに影響を受けた後輩達にどう活用するか問いを投げかけるのが、大きなメッセージだった。
我々は既に日本の自然豊かな風景を
「ジブリみたい」と表現するのが当たり前になった日常を生きている。
元々はジブリのアニメーターがロケハンをして丁寧に描いた背景美術がここまで浸透しているからだ。
筆者自身もそうだが、創作者は自分が思春期に影響を受けたものの要素を一生のモチーフとして繰り返し描き続けていく。
新しい刺激を求めて映画を観たいなら未知の才能の作品を観れば良い。
すでに最晩年の境地に立った宮崎駿にそれを求めるのは酷である。
『七人の侍』を書いた3人の脚本家で最後に生き残った
橋本忍(1918~2018)が晩年に脚本家志望者に送ったメッセージは、ハードルを下げて脚本を書くことだった。
何故なら、これから我々が書く新たな創作物は99%近くが既に先人が描いてきた。
わずか1%でも描きたい何かがある。
脚本の意図がまず観客に届くのは、直接的な言葉ではないが俳優が発する台詞である。
俳優を通して少しでも新しいものを作りたい。
難しい課題を私たちはどう乗り越えたら良いのか?
生きることは考え、作品を生み出していくことである。
作品は美術作品に限らない。
全てのジャンルに繋がっている。
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アニメファンの賛否の対象になっている。
しかし、作品の背景のリアリティラインとして実写と変わらない基準で俳優を選んでいると考えられる。
最近大河ドラマが、声優で有名な人が出演することも多い。
声優という職業は日本独自で、本来は俳優の仕事に声の出演だけがあるだけだ。
日本の戦後のアニメーションの創成期から関わっている宮崎駿からすれば当然の起用法なのである。
スタジオジブリの名前の由来になったのは、宮崎駿の好きな飛行機の名前でもあるイタリア語で「熱風」を意味する言葉だ。
宮崎駿がこの映画の原案の一つ吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を読んだ戦後間もなくのことである。
同じ頃、イタリアでは映画制作の傾向で
『ネオリアリズモ』と言う潮流があった。
俳優だったヴィットリオ・デ・シーカ(1901~1974)はちょうどこの時期に映画監督デビューしている。
キャリアの前期に演技経験の無い素人を使ってイタリア社会の貧困問題を浮き彫りにした『自転車泥棒』(1948)は第22回アカデミー賞名誉賞を受賞した。
(ウクライナ戦争で撮影場所として再注目された映画『ひまわり』(1970)は、ヴィットリオ・デ・シーカが晩年に撮った作品)
宮崎駿は『君たちはどう生きるか』で自らの作品のセルフパロディを描いている。
ネオリアリズモの終わり頃に監督デビューしたのが漫画家出身の
フェデリコ・フェリーニ(1920~1993)である。
映画監督が映画について描いた『81/2』(はっかにぶんのいち)(1963)はビートたけしの『TAKESHIS'』(2005)に影響を与えるなど数多くの映画監督がキャリアを重ねた後に撮りたい題材を開発した。
これは映画にするネタが無くて、じゃあ映画のネタに悩む映画監督の話しにしようと思いついた苦肉の策である。
『風立ちぬ』を引退作にしようと思った宮崎駿が再び映画に取り組もうと思ったのは、あるアイデアを思いついたからだ。
もう一つの原案ジョン・コナリー『失われたものたちの本』の主人公の設定を自分の経験に置き換えるアイデアが湧いてきたからである。
『君たちはどう生きるか』に影響を受けた少年の地獄巡りの旅と言う構造である。
これが結果的に宮崎駿が過去に出演した俳優陣を再結集させて、自らの作品群を一つの作品に集約させる
映画による「もう一つのジブリ美術館」を作った。
後半は殆どでシュールレアリズムの絵画が動いているような、訳の分からない展開になるのはその理由がある。
そこに初めて参加する俳優を配置して、ジブリに影響を受けた後輩達にどう活用するか問いを投げかけるのが、大きなメッセージだった。
我々は既に日本の自然豊かな風景を
「ジブリみたい」と表現するのが当たり前になった日常を生きている。
元々はジブリのアニメーターがロケハンをして丁寧に描いた背景美術がここまで浸透しているからだ。
筆者自身もそうだが、創作者は自分が思春期に影響を受けたものの要素を一生のモチーフとして繰り返し描き続けていく。
新しい刺激を求めて映画を観たいなら未知の才能の作品を観れば良い。
すでに最晩年の境地に立った宮崎駿にそれを求めるのは酷である。
『七人の侍』を書いた3人の脚本家で最後に生き残った
橋本忍(1918~2018)が晩年に脚本家志望者に送ったメッセージは、ハードルを下げて脚本を書くことだった。
何故なら、これから我々が書く新たな創作物は99%近くが既に先人が描いてきた。
わずか1%でも描きたい何かがある。
脚本の意図がまず観客に届くのは、直接的な言葉ではないが俳優が発する台詞である。
俳優を通して少しでも新しいものを作りたい。
難しい課題を私たちはどう乗り越えたら良いのか?
生きることは考え、作品を生み出していくことである。
作品は美術作品に限らない。
全てのジャンルに繋がっている。
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