七色の声を持つ男、声優界のレジェンド山寺宏一が大河ドラマ初出演!三谷幸喜脚本の『鎌倉殿の13人』で慈円役にどうして選ばれた?

2022/9/1 22:00 龍女 龍女

慈円(1155~1225)とは、1192年から比叡山延暦寺を総本山とする天台宗のトップにあたる天台座主を4回務めた僧侶である。

『鎌倉殿の13人』では尾上松也演じる後鳥羽上皇(1180~1239)のブレーンとして登場している。

平安時代後期、天台宗は日本で最も大きな宗派だった。
僧侶は当時の知識階級を形成していた職業である。
特に平安京の東北で鎮護国家の目的で建てられた比叡山延暦寺は仏教の総合大学的な役割を果たしていて、明治時代以降の東大に相当する側面もあった。
浄土真宗の宗祖になった親鸞(1173~1263)は9歳の頃、東山にある天台宗の寺の青蓮院の高僧だった慈円から得度を受けている。

同じ天台宗の寺が全国各地にあって、荘園を持っていた。
荘園を管理する武士は農民を束ねていた。
荘園領主の武士は、信者でもあったので困ったことがあると天台宗の僧侶に相談した。
天台宗の僧侶は支配者でもあった。
日本全国的にも有数の大地主でもあったので、朝廷への影響力が絶大であった。
そこで朝廷は、全国から集まってくる情報を把握するために延暦寺のトップである天台座主をブレーンとして迎えた。


(慈円の肖像画の模写。『国文学名家肖像集』より引用 イラストby龍女)


(慈円を演じる山寺宏一 イラストby龍女)

慈円の実の兄は天皇を補佐する官僚制度の太政官のトップ、関白を務めた九条兼実(1149~1207)である。

兼実・慈円兄弟の父、藤原忠通(1097~1164)は、直系の先祖にあたる藤原道長(966~1028)が全盛期だった摂政(幼い天皇を補佐する役職)関白政治を衰退させてしまった。

息子の兼実は、忠通の六男にあたり、新たに九条を名乗って分家を作った。
兼実は、慈円以外にも兄弟が多かった。
忠通の三男は近衞基実(1143~1166)、五男は松殿基房(1144~1231)、十男が藤原兼房(1153~1217)で、全て大臣経験者である。
名家とはいえ、土地の相続が見込めない下の兄弟は僧侶になることも多かった。
慈円以外にも、藤原氏の氏寺にあたる奈良の興福寺の中興の祖になった信円(1153~1224)を含めて、忠通の子供は7人僧籍に入っている。

兄兼実は衰退した摂関家が生き残る策をねった。
宮廷儀式の細かい決まり事、いわゆる「有職故実」に詳しくなった。

九条兼実は有職故実に疎い成り上がりの武家の平氏一族が朝廷内で出世していく過程で必要な人材として出世できた。
個人的な心情としては不本意であったらしいが。


(九条兼実の肖像画の模写。『天子摂関御影』から引用 イラストby龍女)

ココリコの田中直樹(1971年4月26日生れ)が九条兼実を演じている。
慈円と一緒に出ているシーンはない。
後鳥羽が天皇に在位(1183~1198)していた建久7年(1196)の政変で失脚して政界を引退して、宮中に出入りしていなかったからだ。
※第34回で一緒のシーンがあった。
九条邸?で、慈円が兄の兼実に会うシーンが出てきてびっくりした。


(九条兼実を演じる田中直樹 イラストby龍女)

ドラマ上の出番としては少ないが、二人とも重要な役である。
九条兼実は日記にあたる『玉葉』
慈円は歴史に関して私見を加えた『愚管抄』を書いた人物だ。
『鎌倉殿の13人』を書くにあたり使った基本資料、北条氏側の『吾妻鏡』で書かれていない箇所を補強する役割も担っている。

『愚管抄』は一説によると、1220年頃に成立して、一触即発の関係だった朝廷と鎌倉幕府の間が平和裏に収まる目的で書かれたそうである。
つまり、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に戦いを仕掛けることを諫めようとしたのである。
慈円は好むと好まざるに関わらず武士の世の中が時代の趨勢であると見抜いていたようだ。
しかし1221年に承久の乱が起こってしまった。


さて、山寺宏一が連続ドラマに出るようになったのは三谷幸喜脚本のフジテレビのドラマ『合い言葉は勇気』(2000年)からである。
それ以降、三谷幸喜脚本の常連になった。
次の頁ではその直前に遡って、この役に至るまでの経緯を探っていこう。

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