伝記映画『エルヴィス』でトム・ハンクスが演じたマネージャー、トム・パーカー大佐とは何者だったのか

2022/7/7 22:00 龍女 龍女

エルヴィス・アーロン・プレスリーは、1935年1月8日ミシシッピ州テュペロで、双子として生れた。
兄のジェシー・ガーロンは生後すぐに亡くなったので、母グラディス・ラブ・プレスリー(1912〜58)は溺愛した。
ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー(1916〜79)は不渡小切手で服役したりして貧しい暮らしだった。
11歳の誕生日に欲しかったライフルの代わりにギターを与えられてから音楽に夢中になった。
13歳でテネシー州メンフィスに引っ越した。
翌年に転居したロウダーデール・コート公営住宅が貧しい黒人が多く住む地域だったので、自然とゴスペルとブルースに慣れ親しむようになった。

高校卒業後、クラウン・エレクトリック社でトラック運転手として働いていた。
エルヴィスは1953年にメンフィスのサン・スタジオで4ドルを払ってデモ版を録音した。
その歌声を聞いたサム・フィリップス(1923~2003)は、1954年6月に行方不明の歌手の代理として、初めてのシングルThat’s All Right を録音させた。
シングルは翌7月に発売された。
アメリカ南部を中心にヒットした。
黒人のように歌う白人の若者の存在は、実はレコード業界内では待望されていたこともあった。
アメリカレコード協会でゴールドディスクに認定されている。

1955年8月までに5枚のシングル10曲を録音、発売した。
同じ1955年の8月にエルヴィスの両親は、トム・パーカー大佐とマネージメント契約をした。
11月には、サン・レコードが全米に配給先に提携していた大手レコード会社RCAに移籍した。

腰を振りながら歌うスタイルは若い女性ファンを熱狂に導いた。
しかし、白人でありながら黒人のように歌う歌唱法なども含めて、当時のアメリカの保守層に目を付けられるようになった。
慈善コンサートで、腰を振ったために逮捕されるようなこともあった。

単に黒人の音楽を真似たという意味だけでは無い。
エルヴィスがカバーした『トゥッティ・フルッティ』のオリジナルを歌った
リトル・リチャード(1932~2020)はゲイを公言していた。
アメリカ合衆国はまだ同性愛等の性行為を禁じるソドミー法が有効だった時代である。


(リトル・リチャード イラストby龍女)


(リトル・リチャードを演じるアルトン・メイソン イラストby龍女)

しかしエルヴィスの人気はうなぎ登りで、人気TV番組『エド・サリヴァン・ショー』で上半身だけ映して放送するという対策で乗り切った。

また1956年には、映画にも出演するようになった。
初出演初主演映画は『やさしく愛して』
1957年には『監獄ロック』に主演した。


(映画『監獄ロック』の時のエルヴィス・プレスリー イラストby龍女)

しかし、1958年には、エルヴィスに召集令状が届き、2年の兵役をドイツで過ごすことになった。
兵役の最初の年、1958年には最愛の母グラディスが酒に溺れて体調を崩し、8月に亡くなった。この時だけ故郷に戻って葬式には出席できた。
1960年の3月の退役までの間に、ドイツ勤務の米軍将校の娘、プリシラ・アン・ブーリューとの交際が始まった。
彼女は当時、エルヴィスの10歳年下の14歳だった。
8年後の1967年に結婚した。

エルヴィスは、除隊後は主にハリウッドの拠点に年3本の映画に出演する生活をした。
1956年から1969年までに31本の映画に出演したが、その間にロックはビートルズの時代になり、若者の心はエルヴィスから離れていった。

1968年12月3日、NBCで放送された番組『ELVIS』


(TV番組『ELVIS』を再現。オースティン・バトラー。 イラストby龍女)

トム・パーカー大佐は当初クリスマスソングだけを歌わせようとした。
プロデューサー兼ディレクターのスティーヴ・ヴィンター(1932年12月12日生れ)とプロデューサー兼エンジニアのボーンズ・ハウ(1933年3月18日生れ)が反対し、クリスマスソングは一曲のみ、これまでのヒット曲と新曲で構成された意欲的な内容となった。
視聴率は70%の脅威の数字をたたき出し、エルヴィス・プレスリーの復活を印象づけた。
しかしこれ以降、エルヴィスの生活はコンサートツアーに忙殺されることになり、徐々に疲労回復に始めた薬物使用が徐々に体を蝕んでいく。

こうした生活の中で、メンフィスマフィアと呼ばれる取り巻きとの生活などで、夫婦間のすれ違いが続き、プリシラとは1973年に離婚することになってしまった。

1969年からは、ラスベガスのインターナショナルホテルでの長期公演が始まり、5年続いた。
実はこの頃、プレスリーに日本公演のオファーがあったが、トム・パーカー大佐が警備がどうのこうと言い訳をしてうやむやにしてしまった。
同じように、バーブラ・ストライサンドからオファーされた『スター誕生』の出演をトム・パーカー大佐が断ってしまう。

1977年8月16日。
新たなツアーが始まる17日を前に、グレイスランド(エルヴィス邸の名称)でエルヴィス・プレスリーは42歳の若さで、処方薬の誤用による不整脈が原因で亡くなった。


では、エルヴィス・プレスリーの死後20年も生き延びた悪徳マネージャー
トム・パーカー大佐とは如何なる人物だったのだろうか?

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