小室哲哉を終わらせた?ニューアルバム『BADモード』が発売された24年後の宇多田ヒカルは、どこに行こうとしている?

2022/2/24 22:00 龍女 龍女

小室哲哉(1958年11月27日生れ)は1995と96年はヒットチャートを独占する勢いだった。
1997年に、小室哲哉がプロデュースした中でも最大のスター安室奈美恵(1977年9月20日生れ)が結婚と妊娠で休養期間に入った。
他にも雪だるま式に公私ともに小室哲哉の周囲では様々な出来事があった。
この頃から、ヒットメイカーとして、小室哲哉の時代は終わりかけていた。
1998年から本格的にR&B/HIP HOPを始めようと、元DOSのAsamiこと吉田麻美と組んで、Kiss Destinationを結成。
これまでのまったく別のアプローチから、音楽を作ろうとニューヨークを拠点に製作をしていた矢先であった。
小室哲哉は宇多田ヒカルの『Automatic』を聞いたのであろう。
Kiss Destinationの活動は、吉田麻美との結婚と離婚を経て2002年で終了した。


(2018年の引退記者会見の写真から引用 イラストby龍女)

TVのコント番組『笑う犬の生活』(1998年10月~1999年9月)の最初のエンディング曲(その後、タンポポ「たんぽぽ」、テイ・トウワ「Let Me Know」と変更)だった。
筆者は、番組の最後に流れる度、キーボードが奏でる一音目から心を掴まれていた。

週刊文春で『考えるヒット』を連載していたミュージシャンで音楽評論でも定評のある近田春夫(1951年2月25日生れ)は、宇多田ヒカルを取り上げたときに

「SPEEDは事実上終わった」
と表現している。
これは安室奈美恵を輩出した沖縄アクターズスクール出身の女性4人組SPEEDを指す。
彼女たちは本格的なR&Bを売りにしたアイドルにみえたが、実際はジャンル的には中途半端な音楽だった。
当時、筆者はSPEEDのシングル『Long Way Home』(1999年7月発売)を購入して、他のカップリング曲を聴いてガッカリした覚えがある。
「これじゃ、ロックじゃん!」
作詞作曲プロデュースしていた伊秩弘将(1963年4月26日生れ)の作る楽曲が真にはR&Bっぽくなかったのだ。

つまり、小室哲哉やその後輩の音楽プロデューサーが努力してR&Bの楽曲を創ろうとしていた。
それなのに、宇多田ヒカルはあっさりと自然に作り上げてしまった。

更に追い打ちをかけたことがある。
年上の男性が若い女性の心情を想像しながら歌詞を作ってたのに、当事者にわかりやすい言葉で書かれてしまった。
ぐうの音も出まい。

拍車をかけて悪い方向に進んだのが、小室哲哉がワーカホリックだったことだ。
全盛期にTVに出まくっていたことがあだになった。
飽きられてしまったのだ。

音楽界に起こっていたR&Bブームと同時進行に起こっていた第2次女性シンガーソングライターブームのダブルパンチで襲いかかってきた。
1998年の5月に同じ東芝EMIから椎名林檎(1978年11月25日生れ)が初めてのシングル『幸福論』を発売した。
浜崎あゆみ(1978年10月2日生れ)は1998年4月に『poker face』でデビュー。
aiko(1975年11月22日生れ)は1998年の7月にシングル『あした』でデビュー。
1998年は大物女性アーティストの当たり年であった。
宇多田ヒカルはこうした女性シンガーソングライターの中で一番遅く、若かった。
真打ち的存在であったとも言える。
自己プロデュースできる女性のソロ歌手には、小室哲哉的存在はいらない。
音楽プロデューサーの役割が、小室哲哉の次に全盛期を迎えたつんく♂のように集団アイドルへと特化していったのは象徴的な出来事であろう。

宇多田ヒカルはデビュー当時16歳でインターナショナルスクール在学中で学業を優先して、メディア露出を制限していた。
小出しにしていたことが結果的に良かった。
コロンビア大学を中退して、社会人になってからメディアへの露出が増えても、一定の仕事量にセーブしている。
特に宇多田ヒカルが活動が活発だったのは、デビューから約12年間である。
その中で失敗した仕事もいくつかある。
特に大きかったのは「UTADA」名義での英語だけのアルバムリリースだった。
宇多田ヒカルの楽曲の魅力である日本語と英語が混じり合う違和感が英語だけの楽曲では生かし切れなかったのが大きいだろう。
2010年の「人間活動宣言」と名付けた活動休止後、2016年に『Fantôme』が発売された。
母である歌手藤圭子(1951~2013)の死にも影響を受けて制作された楽曲数曲を含む。
各配信サイトで31カ国でチャートインして、世界的にも一定の成功を収めた。

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