サザン桑田佳祐とミスチル桜井和寿の夢のコラボ曲『奇跡の地球』は、コロナ禍の今こそ聴かれるべき名曲である理由とは?

2021/12/1 16:00 龍女 龍女

①最初のエイズのチャリティソングとは?


(80年代を代表するソングライターチームの一つ、バート・バカラックとキャロル・ベイヤー・セイガー イラストby龍女)

元々『愛のハーモニー(原題:That's What Friends Are For)』は、バート・バカラック(1928年5月12日生れ)が音楽を担当した、ロン・ハワード監督の2作目『ラブ IN ニューヨーク(原題: NIGHT SHIFT)』 (1982)のエンディングに流れる挿入歌として作られた。
歌っていたのは、ロッド・スチュアート(1945年1月10日生れ)である。


(1982年のロッド・スチュアート。 イラストby龍女)

ジェフ・ベック・グループとフェイセズとブルースロックバンドを経て、ソロになった。
西城秀樹(1955~2018)はロッド・スチュアートのマイクスタンドパフォーマンスに多大な影響を受けている。

彼のヴォーカルの特徴は、力強いハスキーボイスでブルースによく似合う。


『愛のハーモニー』の作詞家で、キャロル・ベイヤー・セイガー(1947年3月8日生れ)は、この楽曲が他の歌手にも合うはずだと考えた。

その歌手の名前は、ディオンヌ・ワーウィック(1940年12月12日生れ)である。
キャロル・ベイヤー・セイガーの提案に、バート・バカラックは躊躇した。
実はセプターレーベル時代の60年代後半に立て続けにヒット曲を作詞家ハル・デイヴィッド(1921~2012)とディオンヌ・ワーウィックと数多くのヒット曲を放った黄金トリオであった。
しかし、ディオンヌが歌うはずだった曲を他の白人女性歌手が歌うなどの出来事が相次いで、そのトラブルの数々に疲れたバート・バカラックはハル・デイヴィッドとも仲違いし、70年代半ばから疎遠になっていた。

ニューヨーク在住だったバート・バカラックは、ロサンゼルスに移住し、同じニューヨーク出身のソングライターであったキャロル・ベイヤー・セイガーと出逢い、1982年に結婚した。

70年代のトラブルを知らなかったキャロル・ベイヤー・セイガー。
彼女は、一方で社交に熱心だった。
ハリウッドの豪邸で行われるホームパーティに積極的に出席し、エイズ基金を立ち上げたハリウッドを代表する大女優のエリザベス・テイラー(1932~2011)と友人になった。
ハリウッドではロック・ハドソン(1925~1985)が実は同性愛者でエイズを発症したことが衝撃を与えた。
映画『ジャイアンツ』(1956)で共演以来、親友となっていたエリザベス・テイラーは他にも数多くのゲイの友人がいた。
その活動に共鳴したキャロル・ベイヤー・セイガーは、友情について歌ったこの曲こそ、エイズ基金のテーマソングにふさわしいとして、思いついたのである。

それではと、ディオンヌ・ワーウィックに連絡を取り、まずバート・バカラックとディオンヌ・ワーウィックのコンビ復活のイベントをすることになった。
その場に選ばれたのは、音楽番組『アメリカン・バンドスタンド』の司会者ディック・クラークが立ち上げたアメリカン・ミュージック・アワードの13周年記念の特別番組。
60年代のヒットメドレーを披露して、最後に歌ったのが『愛のハーモニー』だった。
盛り上がった事で、ディオンヌ・ワーウィックのアルバム『フレンズ』で半分以上、バート・バカラックとキャロル・ベイヤー・セイガーコンビの歌を取り上げてアルバム作りが始まった。
目玉となる『愛のハーモニー』は4人、男性二人、女性二人の構成で、男性一人はゲイのミュージシャンが良いと企画された。
ディオンヌ以外は、男性はスティーヴィー・ワンダー(1950年5月13日生れ)、女性はグラディス・ナイト(1944年5月28日生れ)に決まった。
スティーヴィー・ワンダーはディオンヌ・ワーウィックとは、映画『ウーマン・イン・レッド』のサントラでコラボアルバムを作ったばかり。
グラディス・ナイトはディオンヌの友人であり、1960年代はスティーヴィー・ワンダーとは同じモータウン・レコードのレーベルメイトだった。

残りの一人は当初ルーサー・ヴァンドロス(1951~2005)だった。
ルーサー・ヴァンドロスは多忙のため、レコーディング日に空いていたエルトン・ジョン(1947年3月25日生れ)に替わった。


(1985年末のレコーディング風景。左前からエルトン・ジョン、スティーヴィー・ワンダー。左後ろからグラディス・ナイト、キャロル・ベイヤー・セイガー、バート・バカラック、ディオンヌ・ワーウィック イラストby龍女)


(『愛のハーモニー』のMVから抜粋。グラディス・ナイトとスティーヴィー・ワンダー イラストby龍女)

輝き続けよう。
良いときも悪いときも、頼って良いんだよ。
それが友人ってもんでしょう。

単なるチャリティソングではなく、疎遠だった名コンビのバート・バカラックとディオンヌ・ワーウィックの友情が復活した記念碑的一曲ともなった。


(2011年に再集結したディオンヌ&フレンズ。左からスティーヴィー・ワンダー、グラディス・ナイト、エルトン・ジョン、ディオンヌ・ワーウィック イラストby龍女)

余談だが、最後のイラストは『愛のハーモニー』発売25周年イベントで再集結の様子を描いた。


日本に関することと言えば、
ディオンヌは1993年3月28日に「STOP AIDS CONCERT」という横浜文化体育館で行われた日本のエイズチャリティイベントに参加した。
主催者は、西城秀樹である。
また、桑田佳祐は早生まれで学年は西城秀樹と同じである。
余談だが、スネークマンショー(小林克也・伊武雅刀)の薬屋のコント(コンドームを恥ずかしそうに買おうとする内容)のパロディで、レコード店で店員が桑田佳祐、客が西城秀樹というTV番組の動画がYouTubeにあるので、参考までに。

西城秀樹は、ロック畑からアイドルになった経緯があり、親分肌の気質だった。
彼を慕う数多くのロックミュージシャンを集められる力を持っていた。
主にハードロック系やビジュアル系が多かった。
同じ年に他ジャンルのロックミュージシャンが集まったAAAが立ち上がる4ヶ月前の出来事である。

いよいよ、『奇跡の地球』が出来るまでの過程を見ていこう。

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