日本で最も有名な女性脚本家、橋田壽賀子さんが名作ドラマ『時間ですよ』を降板になった理由とは?後任の「向田邦子」とはライバルだった?

2021/4/14 22:00龍女龍女


4月4日、脚本家の橋田壽賀子さん(以下、敬称略)が亡くなった。享年95。

終の棲家は熱海の別荘である。
近所に住む橋田ドラマ常連俳優の泉ピン子を始め10人が最期を看取ったらしい。

橋田壽賀子は恐らく、世界中で最も有名な日本のTVドラマ脚本家ではないか?
Wikipediaによると、日本語以外の他国言語では8カ国語の項目がある。
次点が7カ国語で、向田邦子、三谷幸喜、宮藤官九郎と続く。

橋田壽賀子が国際的評価を受けた作品と言えばズバリ『おしん』である。
朝ドラこと朝の連続テレビ小説で最高視聴率をたたき出し、世界中、特にアジア地域で放送され大ブームを起こした。

現在、テレビドラマの賞で著名な女性脚本家の名前が冠せられているのは二人いる。橋田壽賀子と向田邦子である。
雑誌TVガイドを出している東京ニュース通信社が主催して、1982年に創設されたのが・・・
オリジナルのTVドラマの脚本に贈られる向田邦子賞
片や橋田壽賀子が理事を務めていた橋田文化財団が主催する橋田賞だ。
向田邦子賞は、プロの脚本家のみ。
橋田賞は俳優やスタッフに贈る部門と、新人脚本家の登竜門のコンクールと受賞対象が幅広い。
では改めて、日本で最も有名な女性脚本家、橋田壽賀子と、筆者が尊敬する向田邦子とはどういう関係だったか?
振り返っていこう。



①TBSテレビドラマ黄金期を支えた二人の女性脚本家



1981年8月22日、台湾の飛行機事故で不慮の死を遂げた向田邦子。
享年51。40年後の今、生きていたら、91歳である。
つまり、向田邦子は橋田壽賀子より4歳年下だ。
二人が40代の働き盛りにTBSで起こった出来事、名付けるなら『時間ですよ事件』があった。

『時間ですよ』(1970~1990)は、東京の下町の銭湯を舞台にしたホームドラマだ。
実は、1965年に日曜の21時放送の東芝日曜劇場で単発の『時間ですよ』が好評で5年後の1970年に作られた。
このときの脚本家は橋田壽賀子であった。
TV局では番組を作る際に企画が通っても連続化するためにはもう一つ大きなハードルが存在する。
そのとき、視聴者やスポンサーにプレゼンテーションされる材料として制作されるのが、パイロット版だ。
局内で試写会が行われて、ゴーサインが出ると連続化というパターンもある。
視聴者あっての番組作りなので、実際に単発の番組を作って反響を調べてから連続化される。
シリーズ化したドラマになると、毎週放送するための効率として、脚本家も演出家も交代制となる。
企画に大きく関わった脚本家は初回から数回担当することが多い。
そこでトラブルが起こった。
橋田壽賀子(当時45歳)は3回目にして『時間ですよ』を降板することになった。

原因は演出の久世光彦(1935~2006)であった。
橋田壽賀子の脚本の特徴は、アドリブを許さない。
久世光彦の演出はアドリブをつけたのだ。
しかしそれだけではないと筆者は考えている。
スタッフロールを観ると、プロデューサーが単発の時は

石井ふく子であったが、連続化して担当したのは別人である。
橋田壽賀子と石井ふく子の信頼関係は、こうしたトラブルの時に起こる石井ふく子の調整能力に合ったのではないかと考えられる。
ドラマでは、まず企画立ち上げからプロデューサーが仕切る。
プロデューサーと信頼関係のある複数の脚本家の資質に合わせて、ドラマの内容に応じて仕事を配分する。
おそらく連続化の立ち上げの頃から、ちょっとした連絡の行き違いがプロデューサーと橋田壽賀子の間に存在して久世光彦のアドリブを許してしまった出来事に現れてしまったと思う。
この当時はそんなに久世光彦(当時36歳)が偉かったとも思えない。
しかし、プロデューサーが久世光彦をかばった可能性が高い。
以後、橋田壽賀子と久世光彦は口を利かなくなったという。

向田邦子は、『時間ですよ』は第二シリーズで本格的に加わっている。


しかしメインの脚本家ではなく数あるサブの一人であった。


1974年1月の『寺内貫太郎一家』は、向田邦子がメインの脚本家になった。
プロデューサー(兼演出)に昇格した久世光彦で大ヒットした。
1974年10月から放送された『時間ですよ・昭和元年』でも、向田邦子はメインの脚本家である。
ここから向田邦子は亡くなるまで、久世光彦演出以外でも名作を連発する

筆者が、一番古いテレビドラマのリアルタイムの記憶は、向田邦子がNHKで書いた『阿修羅のごとく』(1979・80年)の主題曲であるトルコの軍楽である。
内容はほぼ覚えていないが、OPだけはやけに覚えている。
筆者は30歳の時に、急にシナリオライターになろうと思って勉強し始めた。
まず最初にテキストとして読み始めたのが、阿修羅のごとくである。
完成したシナリオを読むと、ト書きと台詞に全く無駄がないのである。
読んでいて実に気持ちが良い。美しいのである。
しかし、それ以上に向田邦子が好きになったのは、母の影響が大きい。
母は向田邦子の短編小説を所蔵していたし、亡くなった2年後に出された文藝春秋のムック『向田邦子ふたたび』も自宅にあり、読んだのが大きい。

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