【大判小判がざっくざく】ミュージアムでお金をめぐる歴史の旅をしてみた。

2020/9/8 21:32yamasanyamasan

こんにちは、いまトピアート部のyamasanです。

自宅の庭を掘ってみたら大判小判がざっくざく、一夜にして一獲千金、億万長者!
というわけにはいきませんが、先日、押入れを整理していたら、ガチャガチャでゲットした金貨がごっそり出てきたので、今回は日本のお金の歴史を少し紹介したいと思います。


(エポック社 古銭コレクション 日本の大判・小判・金貨)


現在、東京国立博物館平成館1階の考古展示室で展示中の「江戸から掘り出されたモノ」のコーナーには綺羅星のごとく輝く金貨がいっぱい。

このコーナーには、安土桃山時代から江戸時代に作られた小判、一分金が展示されていて、これらは昭和31(1956)年に東京・銀座で小判208枚、一分金60枚がまとまって出土されたうちの一部なのです。
自宅の庭というわけにはいかないでしょうが、かつてお江戸として栄えた東京の地下にはまだまだお宝が眠っているのかもしれません。

関ケ原の合戦の翌年、徳川家康が慶長6(1601)年から発行した慶長大判。
天下統一を全国に誇示するかのように燦然と輝いています。


「古代の貨幣」のコーナーには富本銭や、和同開珎はじめ奈良時代から平安時代にかけて作られた皇朝十二銭などが展示されています。


日本で最初に作られた貨幣「富本銭」。


子どもの頃、学校で日本最古の貨幣と習った「和同開珎」。


(現在展示されている古銭・貨幣の展示期間は9月27日まで。展示替えがあります。)

ここだけでも十分楽しめるのですが、古銭や貨幣についてもっと知りたいという方には、東京日本橋にある貨幣博物館がおススメです。


貨幣博物館
所在地  東京都中央区日本橋本石町1-3-1(日本銀行分館内)
アクセス 地下鉄 半蔵門線三越前駅(B1出口)から徒歩1分
         銀座線三越前駅(A5出口)から徒歩2分
         東西線日本橋駅(A1出口)から徒歩6分
     JR東京駅日本橋口から徒歩8分
開館時間 9:30~16:30(入館は16:00まで)
休館日  月曜日(ただし祝休日は開館)、年末年始(12月29日~1月4日)
   ※このほか、展示入れ替え等のため臨時休館することがあります。
入館無料
※展示室内は撮影不可です。

公式サイト⇒日本銀行金融研究所貨幣博物館



展示室内は、古代、中世、近世、近代と年代順になって貨幣やその解説パネルが展示されていて、企画展コーナーもあります。

富本銭の解説は冒頭の古代のコーナーにありました。

今では富本銭や無文銀銭が日本で最初に作られた貨幣と考えられていて、『日本書紀』にも天武12(683)年に、「今より以後、必ず銅銭(富本銭のこと)を用いよ。銀銭(無文銀銭)を用いることなかれ」という詔(みことのり)があったとのこと。

下の写真は古銭の形をしたビスケット「エースコイン」。
一口サイズで、サクサクしていて、くせのない味なので、パッケージにある古銭の説明を見ながら食べているうちに止まらなくなった、という方もいらっしゃるのでは。実は私もその一人なのです。
一番手前が富本銭です。


富本銭に刻まれた富と本の文字は、「民や国を富ませる」という意味合いが込められていたそうです。そして、ブドウの房のようにも見える左右の七つの丸い文様は、中国の陰陽五行思想に基づいて陽(日)、陰(月)、木、火、土、金、水が表された七曜文。

こんなおめでたい貨幣なら、コロナ禍で民や国が疲弊している今こそ出現してほしいものです。

和銅元(708)年に作られた和同開珎は、平城宮造営という当時の大きな国家プロジェクトの労賃や資材の購入のために発行されました。

平城宮跡のことは以前のコラムで紹介していますので、ぜひこちらもご覧ください。
【進化する世界遺産】1300年前の都にタイムスリップ!


平城京造営の作業に従事すると、一日一文、つまり和同開珎一枚が労賃として支払われました。当時の一文では穀(もみのついた米)六升の価値があったとのことですが、もちろん米だけでなく、魚などのおかず、酒、それに食器などの日用品も買ったのでしょう。

さらに進むと近世の大判が展示されているコーナーがあります。

さきほどご紹介した東京国立博物館の慶長大判は、豊臣秀吉が作った天正大判についで日本で2番目に作られたもの。
以後、江戸時代に4種類の大判が作られ、合わせて6種類の大判があるのですが、ここで、私のガチャガチャ貨幣コレクションから全6種類の大判をご披露したいと思います。



大きさは実物と比べて1/3ほどのミニチュア版ですが、真鍮メッキ製なので重さも硬さも手触りも本物のようで、見た目もご覧のとおりの見事な出来ばえ。

まずはじめに豊臣秀吉が天正16(1588)年から作った天正大判。


左が「天正菱大判」。大判の上下に菱形の桐極印があるので菱大判と呼ばれています。


右が「天正長大判」。菱大判より上下が長いので長大判と呼ばれ、長さ約17㎝、幅約10㎝で、世界最大級の金貨として知られています。
一番左は大きさの比較のために置いた現行の十円玉。

天正大判が作られた天正16年は、この年の4月に後陽成天皇の聚楽第行幸を実現させて、秀吉がその権勢を世に知らしめた頃のことでした。

続いて徳川幕府の初期から中期にかけて作られた慶長大判、元禄大判、享保大判(左から)。


先ほど紹介した慶長大判は、家康が貨幣制度の確立のために発行したものなのですが、元禄大判を鋳造した理由はあまりかっこいいものではありませんでした。
元禄大判は、幕府の十万両あまりの財政赤字を補填するために、金銀の含有量を減らして貨幣の流通を増やし、幕府の歳入を増加させるために元禄8(1695)年から発行されたものなのです。
(山本博文監修『見る・読む・調べる 江戸時代年表』(2007年 小学館)を参照。)

その後、八代将軍徳川吉宗が享保10(1725)年から発行した享保大判は、慶長大判と同じ量目(重量)・品位(金含有量)に戻されました。
享保の改革で幕藩体制の強化を図った吉宗なので、幕府の威信を回復しようという意図があったのでしょうか。

そして、幕末期の天保大判と万延大判。(左から)。



天保9(1838)年から発行された天保大判は、同時期に発行された天保小判ほかが改悪される中、享保大判の増鋳という意味合いがあったので慶長大判、享保大判と同じ量目・品位に保たれました。
しかし、安政6(1859)年の開港によって様相が一変しました。
外国商人が洋銀を日本の金貨に替えて海外に持ち出すことが多くなったので、金貨の海外流出を抑えるため、金の含有量を下げて発行されたのが、最後の大判、万延元(1860)年の万延大判だったのです。

さて、以前から金貨の中でも大判にだけ表面に何が書かれているのか気になっていたのですが、貨幣博物館の解説を見てようやくわかりました。



一番上が貨幣の単位「拾両」、中央には「後藤」と書かれています。
「後藤」とは、もとは刀装束などを代々製作する彫金師・後藤家のことで、秀吉の天正大判以降、江戸時代に入っても大判は後藤家が作っていたのです。
そして一番下が、後藤家当主の花押(今でいえばサイン)。

これを大判一枚一枚に墨書したのですから、ものすごく神経を使う作業だったことがうかがえます。


さて、ここまで古銭や金貨の歴史を駆け足でたどってみましたが、そこにはさまざまな歴史的背景があることがわかりました。
冒頭お伝えしたように一獲千金というわけにはいきませんが、せめて夢でも見ながら、お金をテーマにミュージアムめぐりをしてみてはいかがでしょうか。