ヨーロッパの古城にStayhomeした人がいた!
こんにちは、いまトピアート部のyamasanです。
今回は前回のワイマールに続いてドイツ中部の街を紹介したいと思います。
前回のコラムはこちらです⇒【自宅で楽しむ海外の街角】あの文豪が愛した街に行ってみませんか。
フランクフルト空港駅からドイツの新幹線ICEに乗ってワイマールに向かう途中、山の上に見えてくるのはアイゼナハ郊外にあるワルトブルク城。
宗教改革者ルター(1483-1546)がここに籠って新約聖書をドイツ語に翻訳したことで知られる古城です。
新型コロナウィルスが猛威をふるう現代でいえばStayhome。 しかし、ルターには疫病対策でなく、ここに籠らなくてはならない別の理由がありました。
贖宥状(免罪符)発行に異議申立てをしたルターに、ローマ教皇庁から正式に破門の大勅令が出されたのが1521年1月3日。そして同年4月にドイツ西部の街ウォルムスで開催された神聖ローマ帝国議会に召喚され、皇帝カール五世から帝国追放処分を受けたルターは、ウォルムスをあとにして、当時、修道士を務めていたドイツ東部の街ビッテンベルクに向かいました。
(ルターは現在でもローマ教皇庁からの破門は解かれていませんが、今年1月24日にルーテル世界連盟(LWF)から、破門500年にあたる来年(2021年)6月にローマで、カトリック教会とルーテル教会の合同記念事業が開催されることが発表されました。)
ルーカス・クラーナハ(父)《マルティン・ルター》(ゲルマン国立博物館 ニュルンベルク)
1517年に「九十五箇条の提題」を発表して以来、ハイデルベルクやライプツィヒでの討論や著書でローマ教皇庁と論戦を展開していたルターは、すでに誰もが知っている「時の人」。
帝国追放ということは、神聖ローマ帝国内で身の安全が保障されないことを意味したので、帰りの道中は危険極まりないものでした。そのルターが何者かに襲われ、突然姿を消したのですから、
「ルターが殺された!」
との噂はまたたく間にヨーロッパじゅうを駆け巡りました。
しかし、ルターは生きていました。
何者かに襲われたというのはカモフラージュで、ルターは人格高潔なザクセン選帝侯フリードリヒ賢公によって、ワルトブルク城にかくまわれたのです。
断崖絶壁の上にそびえたつワルトブルク城。俗世間から隔絶された山の上の古城はStayhomeにはもってこいの場所です。
「ルターの間」に入ります。
ルターはこの部屋に10カ月間籠って新約聖書をドイツ語に翻訳しました。
ルターが翻訳作業に没頭している間、悪魔が誘惑しに現れたので、ルターがインク壺を悪魔に投げつけ、インクの跡が壁に残っていたという言い伝えがあるので、その場にいた係の女性にその跡がどこなのか聞いてみました。
すると、その女性は「あくまでも伝説ですが、右にある暖炉の横に柱があって、その左の板のあたりと言われています。」と教えてくれました。
さらに私が「後世の人たちがルターにあやかろうとして、ナイフでインクを削って記念に持ち帰ってしまったので、あとからインクを壁に足したともいわれていますが。」と聞くと、
「それも伝説ですけれど、でも今は何も残っていないのです。」と笑顔で答えてくれました。
ワルトブルク城の基礎が最初に作られたのは、11世紀後半のこと。
中世には、ワーグナーの「タンホイザー」の題材になった歌合戦が行われたことでも知られています。
19世紀の大改修後も創建当時の後期ロマネスク様式が保存され、1999年にはユネスコの世界遺産に登録されました。
順番が前後しましたが、ワルトブルク城に入ると、城の中はガイド付きのツアーで回り、そのあとの「ルターの間」や併設されている博物館は自由に見ることができます。
城に入ってすぐが、重厚な中柱とレリーフが特徴的な「騎士の間」。
次は「エリザベートの暖炉のある間」。
天井や側面を埋め尽くすモザイクが金色に輝いています。
これらのモザイクは、13世紀初めに14歳でチューリンゲンの領主と結婚して、禁欲的な生活と貧しい人たちや病人に献身的な働きをしたエリザベートの生涯を描いているものです。
こちらは「歌の間」。
壁に掛けられたタペストリーには、歌合戦の様子が描かれています。
「歌合戦に負けた方は絞首刑になりました。」とガイドさん。
今でもコンサートに使われる「祝宴の間」。
入室したときにはちょうど「タンホイザー」がテープで流れていて、臨場感たっぷりでした。
1483年にアイスレーベンで生まれたルターは、18歳でエアフルト大学教養学部に入り、将来は法律で身を立ててもらいたいという父親の期待に沿って22歳で法学部に進みました。そのまま法学部を修了していれば、父親が望んだように安定した生活が送れたことでしょう。
しかし、転機は全く想定できない出来事から訪れました。
帰省先からエアフルトに戻る途中、落雷に撃たれたのです。
幸いにも一命をとりとめたルターは、それがきっかけとなって修道士になることを決意し、エアフルト市内にあるアウグスティヌス修道院の門をくぐりました。
アウグスティヌス修道院の門
アウグスティヌス修道院の中庭。ルターは、ビッテンベルクに移るまでの6年間、ここで修業に励みました。
人口21万人ほどの中都市エアフルトはチューリンゲン州の州都。
歴史のある街なので見どころはいっぱいありますが、ほとんどは歩いて回ることができます。
市内を流れるゲーラ川に架かるクレーマー橋。クレーマーとは雑貨屋、小間物屋という意味で、その名のとおり、橋の両側には土産物店やカフェが並んでいます。
市庁舎前のフィッシュマルクト。こちらもその名のとおり、かつては魚の市が立ったところです。
ドーム広場が見えてきました。今ではここに市が立っています。
そして小高い丘の上にそびえるのは街のシンボル、大聖堂(左)とセベリ教会(右)。
大聖堂の祭壇。ステンドグラスが日の光に輝いています。
そしてこちらが現在のチューリンゲン州首相官邸。
1808年、この建物の「青の間」でナポレオンに謁見したゲーテは、ナポレオンがゲーテの『若きウェルテルの悩み』を陣中に持っていっていることを知りました。
フランクフルト空港駅からワイマールまでICEで約2時間半、ワイマールからアイゼナハまでは急行で約45分、ワイマールからエアフルトまでは急行で10数分。
ワイマールに宿をとれば、アイゼナハもエアフルトも日帰り圏内なので、どちらもぜひ訪れていただきたい街です。
今回は前回のワイマールに続いてドイツ中部の街を紹介したいと思います。
前回のコラムはこちらです⇒【自宅で楽しむ海外の街角】あの文豪が愛した街に行ってみませんか。
フランクフルト空港駅からドイツの新幹線ICEに乗ってワイマールに向かう途中、山の上に見えてくるのはアイゼナハ郊外にあるワルトブルク城。
宗教改革者ルター(1483-1546)がここに籠って新約聖書をドイツ語に翻訳したことで知られる古城です。
新型コロナウィルスが猛威をふるう現代でいえばStayhome。 しかし、ルターには疫病対策でなく、ここに籠らなくてはならない別の理由がありました。
ルターが殺された!?
贖宥状(免罪符)発行に異議申立てをしたルターに、ローマ教皇庁から正式に破門の大勅令が出されたのが1521年1月3日。そして同年4月にドイツ西部の街ウォルムスで開催された神聖ローマ帝国議会に召喚され、皇帝カール五世から帝国追放処分を受けたルターは、ウォルムスをあとにして、当時、修道士を務めていたドイツ東部の街ビッテンベルクに向かいました。
(ルターは現在でもローマ教皇庁からの破門は解かれていませんが、今年1月24日にルーテル世界連盟(LWF)から、破門500年にあたる来年(2021年)6月にローマで、カトリック教会とルーテル教会の合同記念事業が開催されることが発表されました。)
ルーカス・クラーナハ(父)《マルティン・ルター》(ゲルマン国立博物館 ニュルンベルク)
1517年に「九十五箇条の提題」を発表して以来、ハイデルベルクやライプツィヒでの討論や著書でローマ教皇庁と論戦を展開していたルターは、すでに誰もが知っている「時の人」。
帝国追放ということは、神聖ローマ帝国内で身の安全が保障されないことを意味したので、帰りの道中は危険極まりないものでした。そのルターが何者かに襲われ、突然姿を消したのですから、
「ルターが殺された!」
との噂はまたたく間にヨーロッパじゅうを駆け巡りました。
しかし、ルターは生きていました。
何者かに襲われたというのはカモフラージュで、ルターは人格高潔なザクセン選帝侯フリードリヒ賢公によって、ワルトブルク城にかくまわれたのです。
断崖絶壁の上にそびえたつワルトブルク城。俗世間から隔絶された山の上の古城はStayhomeにはもってこいの場所です。
「ルターの間」に入ります。
ルターはこの部屋に10カ月間籠って新約聖書をドイツ語に翻訳しました。
ルターが翻訳作業に没頭している間、悪魔が誘惑しに現れたので、ルターがインク壺を悪魔に投げつけ、インクの跡が壁に残っていたという言い伝えがあるので、その場にいた係の女性にその跡がどこなのか聞いてみました。
すると、その女性は「あくまでも伝説ですが、右にある暖炉の横に柱があって、その左の板のあたりと言われています。」と教えてくれました。
さらに私が「後世の人たちがルターにあやかろうとして、ナイフでインクを削って記念に持ち帰ってしまったので、あとからインクを壁に足したともいわれていますが。」と聞くと、
「それも伝説ですけれど、でも今は何も残っていないのです。」と笑顔で答えてくれました。
千年の歴史を誇るワルトブルク城
ワルトブルク城の基礎が最初に作られたのは、11世紀後半のこと。
中世には、ワーグナーの「タンホイザー」の題材になった歌合戦が行われたことでも知られています。
19世紀の大改修後も創建当時の後期ロマネスク様式が保存され、1999年にはユネスコの世界遺産に登録されました。
順番が前後しましたが、ワルトブルク城に入ると、城の中はガイド付きのツアーで回り、そのあとの「ルターの間」や併設されている博物館は自由に見ることができます。
城に入ってすぐが、重厚な中柱とレリーフが特徴的な「騎士の間」。
次は「エリザベートの暖炉のある間」。
天井や側面を埋め尽くすモザイクが金色に輝いています。
これらのモザイクは、13世紀初めに14歳でチューリンゲンの領主と結婚して、禁欲的な生活と貧しい人たちや病人に献身的な働きをしたエリザベートの生涯を描いているものです。
こちらは「歌の間」。
壁に掛けられたタペストリーには、歌合戦の様子が描かれています。
「歌合戦に負けた方は絞首刑になりました。」とガイドさん。
今でもコンサートに使われる「祝宴の間」。
入室したときにはちょうど「タンホイザー」がテープで流れていて、臨場感たっぷりでした。
ルターは雷に撃たれて修道士になった!
1483年にアイスレーベンで生まれたルターは、18歳でエアフルト大学教養学部に入り、将来は法律で身を立ててもらいたいという父親の期待に沿って22歳で法学部に進みました。そのまま法学部を修了していれば、父親が望んだように安定した生活が送れたことでしょう。
しかし、転機は全く想定できない出来事から訪れました。
帰省先からエアフルトに戻る途中、落雷に撃たれたのです。
幸いにも一命をとりとめたルターは、それがきっかけとなって修道士になることを決意し、エアフルト市内にあるアウグスティヌス修道院の門をくぐりました。
アウグスティヌス修道院の門
アウグスティヌス修道院の中庭。ルターは、ビッテンベルクに移るまでの6年間、ここで修業に励みました。
人口21万人ほどの中都市エアフルトはチューリンゲン州の州都。
歴史のある街なので見どころはいっぱいありますが、ほとんどは歩いて回ることができます。
市内を流れるゲーラ川に架かるクレーマー橋。クレーマーとは雑貨屋、小間物屋という意味で、その名のとおり、橋の両側には土産物店やカフェが並んでいます。
市庁舎前のフィッシュマルクト。こちらもその名のとおり、かつては魚の市が立ったところです。
ドーム広場が見えてきました。今ではここに市が立っています。
そして小高い丘の上にそびえるのは街のシンボル、大聖堂(左)とセベリ教会(右)。
大聖堂の祭壇。ステンドグラスが日の光に輝いています。
そしてこちらが現在のチューリンゲン州首相官邸。
1808年、この建物の「青の間」でナポレオンに謁見したゲーテは、ナポレオンがゲーテの『若きウェルテルの悩み』を陣中に持っていっていることを知りました。
フランクフルト空港駅からワイマールまでICEで約2時間半、ワイマールからアイゼナハまでは急行で約45分、ワイマールからエアフルトまでは急行で10数分。
ワイマールに宿をとれば、アイゼナハもエアフルトも日帰り圏内なので、どちらもぜひ訪れていただきたい街です。