【自宅で楽しむ海外の街角】あの文豪が愛した街に行ってみませんか。
こんにちは、いまトピアート部のyamasanです。
夏が近づいてきました。
いつもなら今年の夏休みはどこへ行こうか、と思いを巡らしているところですが、新型コロナウィルスの影響で海外旅行はまだまだ先の話という状況が続いています。
そこで今回は、海外に安心して行かれる時に備えて、自宅で楽しむ海外編第2弾を紹介したいと思います。
第1弾はこちらです。
【自宅で楽しむ海外のミュージアム】古代の世界にタイムスリップしてみませんか。
そして、今回紹介するのは、ドイツのあの文豪が愛した街、ワイマール。

ワイマール市庁舎前の広場。正面が市庁舎。
ドイツの文豪と言えばこの人、ゲーテ(1749-1832)です。

国民劇場前のゲーテ(左)とシラー(右)の像。
ゲーテは、1791年にこの地に新設された宮廷劇場の運営を任され、のちにワイマールに移ってきたシラー(1759-1805)とともに数々の名作を上演しました。シラーの最後の完成作『ウィルヘルム・テル』やゲーテの『ファウスト』の初演もこの宮廷劇場でした。
現在の建物は20世紀はじめに建て直されたもので(1908年こけら落とし公演)、1919年にはここに招集された国民議会によって、当時もっとも民主的な憲法と言われた「ワイマール憲法」が可決された歴史的な場所で、以後、国民劇場と呼ばれるようになりました。
ワイマールに招聘されたゲーテ
カール・アウグスト大公に招かれたゲーテが期待に胸をふくらませてワイマールに到着したのは、1775年11月7日。ゲーテ26歳の時でした。

ゲーテを招聘したカール・アウグスト大公の像。
すでに小説『若きウェルテルの悩み』などを発表して文名を高めていたゲーテですが、作家活動だけで生計を立てるのは苦しく、また、法律家としてもまだまだキャリアの浅かったゲーテとしては、ワイマールで公職に就くことは願ってもない大きなチャンスだったのです。
ゲーテは鉱山の開発や道路建設などを任され、有能な政治家として10年以上もの間、政務に励みました。カール・アウグスト大公の信任も厚く、大公のベルリン視察旅行などにも随行しました。
しかし、多忙を極めた政務の日々にゲーテは疲れ果て、創作活動もままならぬ中、1786年9月3日の早朝、滞在先のカールスバートをこっそり脱け出しイタリアに向かいました。
イタリアでくつろぐゲーテさん。

こちらはゲーテの生まれ故郷フランクフルト・アム・マインのシュテーデル美術館で買ったティッシュバイン《カンパーニャのゲーテ》(シュテーデル美術館蔵)の絵はがき。
シュテーデル美術館は、2011年に来日したフェルメールの《地理学者》はじめ、中世から現代までの名品を所蔵しているので、見逃せない美術館の一つです。
2年近くにわたるイタリア滞在後、ゲーテは1788年6月8日、どんよりとした気分でワイマールに帰ってきました。
しかしながら、「芸術家としてお役に立てていただきたい」といった願いがかない(1788年3月17日付カール・アウグスト大公あて書簡)、帰還後は政務から引退して、芸術活動に集中することができ、懸案だった大作『ファウスト』も完成して、1832年3月22日、この地で生涯を終えました。
ワイマールは芸術の街
ゲーテ、シラー、ルーカス・クラーナハ(父)、リストが住んだ街ワイマール。そして、バウハウス発祥の地、ワイマール。
ワイマール市の公式サイト⇒Weimarにもタイトルに堂々と”Kulturstadt Europas”。「ワイマールは欧州一の文化都市だ!」といった気概に満ちあふれています(ドイツ語のほか、英語、フランス語、オランダ語が選べるのでぜひご覧になってみてください。)
人口6万5千人ほどの小さな都市なので、観光スポットはほとんど徒歩圏内なのですが、何しろ見どころがいっぱい。とても一度ではすべて見ることができないので、前回の旅行では主にゲーテゆかりの地をたどってみました。
ゲーテが1782年から亡くなるまで50年間住んでいた「ゲーテハウス」

かつては馬車用の出入口だった左側の大きな入口から入り、入場券売り場でチケットを買って2階に上がると部屋の入口にはラテン語で「ようこそ」。

こちらは「青色の間」または「ユーノーの間」。
左手にある白い像はユピテルの妃で、古代ローマの女神ユーノーの頭部模型。ゲーテの古代ローマ趣味がうかがえます。

こちらは晩年のゲーテが主に午前中にこの部屋で創作活動を行った書斎。大作『ファウスト』もこの部屋から生まれました。

そして、ゲーテが最期の時を迎えた寝室。

市街を流れるイルム川を渡ると、広大な敷地の公園が広がっています。奥はカール・アウグスト大公の居城の尖塔。かつての居城は美術館になっていて、クラーナハの作品を多く所蔵しています。

公園の中にひっそりとたたずむゲーテの山荘。

私がワイマールを訪れたのは9月初旬でしたが、昼でも最高気温が13℃。すでに初冬を感じる中、朝の散歩の時のひんやりとした空気がとても心地よく感じられました。
街なかを歩いていると、ところどころにゲーテさんを見つけることができます。
おしゃれなカフェの看板。

スーベニアショップを案内するのもゲーテさん。

ゲーテの生まれ故郷も見逃せない!
海外からの空の玄関口フランクフルト空港は国内便の中継点でもあるので、降り立ったらトランジットで他の都市に行ってしまうことも多いかもしれませんが、ぜひ時間をとって観光したい街です。
マイン川から望む大聖堂の尖塔。大聖堂では歴代の神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が行われ、ゲーテは1764年に行われたヨーゼフ2世の戴冠式のにぎわいを目の前に見ています。

街なかにゲーテの生家「ゲーテハウス」があります。
第二次世界大戦中の空襲で破壊されましたが、戦後、見事に復元されました。

立派な調度品は郊外に疎開していたので無事でした。

地下に通じる階段が爆撃のすごさを物語っています。
この階段もほとんどが爆撃で破壊されて、残ったのは下の3段だけ。上の段は今では見分けがつかないほど見事に復元されています。

多くの領邦国家が分立していた時代に生きていたゲーテはドイツ統一を夢見ていました。
「(略)ドイツのターレルやグロッシェンが全国で同一の価値を持つために統一してほしいよ。私の旅行鞄が全部で三十六の国を通るたびに開かれないでも済むように、統一してほしいな。(以下、略)」
(エッカーマン『ゲーテとの対話(下)』岩波文庫 P235)
ターレルやグロッシェンはどちらも当時のドイツの銀貨。領邦国家の国境を通過するたびにパスポートの提示や両替が必要でした。
しかしゲーテは中央集権的な国を望んでいたのではありません。
「ドイツが偉大であるのは、驚くべき国民文化が国のあらゆる場所に均等に行きわたっているからだ。(以下、略)」(前掲書 P236)
1871年のドイツ帝国成立から、ナチスの時代や東西分断の時代を経て、今では連邦国家として統一されたドイツがあります。そして、ヨーロッパには欧州連合(EU)や、共通通貨ユーロもできました。
今日では、EU市民ならドイツからゲーテの好きなイタリアへは出入国手続きや両替の手間もなく行かれるようになり、ゲーテの夢も現実のものになりました。
さらに、今ではゲーテの生まれ故郷フランクフルト・アム・マインはヨーロッパの金融中心。
欧州中央銀行前にEUのロゴが燦然と輝いています。

夏が近づいてきました。
いつもなら今年の夏休みはどこへ行こうか、と思いを巡らしているところですが、新型コロナウィルスの影響で海外旅行はまだまだ先の話という状況が続いています。
そこで今回は、海外に安心して行かれる時に備えて、自宅で楽しむ海外編第2弾を紹介したいと思います。
第1弾はこちらです。
【自宅で楽しむ海外のミュージアム】古代の世界にタイムスリップしてみませんか。
そして、今回紹介するのは、ドイツのあの文豪が愛した街、ワイマール。

ワイマール市庁舎前の広場。正面が市庁舎。
ドイツの文豪と言えばこの人、ゲーテ(1749-1832)です。

国民劇場前のゲーテ(左)とシラー(右)の像。
ゲーテは、1791年にこの地に新設された宮廷劇場の運営を任され、のちにワイマールに移ってきたシラー(1759-1805)とともに数々の名作を上演しました。シラーの最後の完成作『ウィルヘルム・テル』やゲーテの『ファウスト』の初演もこの宮廷劇場でした。
現在の建物は20世紀はじめに建て直されたもので(1908年こけら落とし公演)、1919年にはここに招集された国民議会によって、当時もっとも民主的な憲法と言われた「ワイマール憲法」が可決された歴史的な場所で、以後、国民劇場と呼ばれるようになりました。
ワイマールに招聘されたゲーテ
カール・アウグスト大公に招かれたゲーテが期待に胸をふくらませてワイマールに到着したのは、1775年11月7日。ゲーテ26歳の時でした。

ゲーテを招聘したカール・アウグスト大公の像。
すでに小説『若きウェルテルの悩み』などを発表して文名を高めていたゲーテですが、作家活動だけで生計を立てるのは苦しく、また、法律家としてもまだまだキャリアの浅かったゲーテとしては、ワイマールで公職に就くことは願ってもない大きなチャンスだったのです。
ゲーテは鉱山の開発や道路建設などを任され、有能な政治家として10年以上もの間、政務に励みました。カール・アウグスト大公の信任も厚く、大公のベルリン視察旅行などにも随行しました。
しかし、多忙を極めた政務の日々にゲーテは疲れ果て、創作活動もままならぬ中、1786年9月3日の早朝、滞在先のカールスバートをこっそり脱け出しイタリアに向かいました。
イタリアでくつろぐゲーテさん。

こちらはゲーテの生まれ故郷フランクフルト・アム・マインのシュテーデル美術館で買ったティッシュバイン《カンパーニャのゲーテ》(シュテーデル美術館蔵)の絵はがき。
シュテーデル美術館は、2011年に来日したフェルメールの《地理学者》はじめ、中世から現代までの名品を所蔵しているので、見逃せない美術館の一つです。
2年近くにわたるイタリア滞在後、ゲーテは1788年6月8日、どんよりとした気分でワイマールに帰ってきました。
しかしながら、「芸術家としてお役に立てていただきたい」といった願いがかない(1788年3月17日付カール・アウグスト大公あて書簡)、帰還後は政務から引退して、芸術活動に集中することができ、懸案だった大作『ファウスト』も完成して、1832年3月22日、この地で生涯を終えました。
ワイマールは芸術の街
ゲーテ、シラー、ルーカス・クラーナハ(父)、リストが住んだ街ワイマール。そして、バウハウス発祥の地、ワイマール。
ワイマール市の公式サイト⇒Weimarにもタイトルに堂々と”Kulturstadt Europas”。「ワイマールは欧州一の文化都市だ!」といった気概に満ちあふれています(ドイツ語のほか、英語、フランス語、オランダ語が選べるのでぜひご覧になってみてください。)
人口6万5千人ほどの小さな都市なので、観光スポットはほとんど徒歩圏内なのですが、何しろ見どころがいっぱい。とても一度ではすべて見ることができないので、前回の旅行では主にゲーテゆかりの地をたどってみました。
ゲーテが1782年から亡くなるまで50年間住んでいた「ゲーテハウス」

かつては馬車用の出入口だった左側の大きな入口から入り、入場券売り場でチケットを買って2階に上がると部屋の入口にはラテン語で「ようこそ」。

こちらは「青色の間」または「ユーノーの間」。
左手にある白い像はユピテルの妃で、古代ローマの女神ユーノーの頭部模型。ゲーテの古代ローマ趣味がうかがえます。

こちらは晩年のゲーテが主に午前中にこの部屋で創作活動を行った書斎。大作『ファウスト』もこの部屋から生まれました。

そして、ゲーテが最期の時を迎えた寝室。
市街を流れるイルム川を渡ると、広大な敷地の公園が広がっています。奥はカール・アウグスト大公の居城の尖塔。かつての居城は美術館になっていて、クラーナハの作品を多く所蔵しています。

公園の中にひっそりとたたずむゲーテの山荘。

私がワイマールを訪れたのは9月初旬でしたが、昼でも最高気温が13℃。すでに初冬を感じる中、朝の散歩の時のひんやりとした空気がとても心地よく感じられました。
街なかを歩いていると、ところどころにゲーテさんを見つけることができます。
おしゃれなカフェの看板。

スーベニアショップを案内するのもゲーテさん。

ゲーテの生まれ故郷も見逃せない!
海外からの空の玄関口フランクフルト空港は国内便の中継点でもあるので、降り立ったらトランジットで他の都市に行ってしまうことも多いかもしれませんが、ぜひ時間をとって観光したい街です。
マイン川から望む大聖堂の尖塔。大聖堂では歴代の神聖ローマ帝国皇帝の戴冠式が行われ、ゲーテは1764年に行われたヨーゼフ2世の戴冠式のにぎわいを目の前に見ています。

街なかにゲーテの生家「ゲーテハウス」があります。
第二次世界大戦中の空襲で破壊されましたが、戦後、見事に復元されました。

立派な調度品は郊外に疎開していたので無事でした。

地下に通じる階段が爆撃のすごさを物語っています。
この階段もほとんどが爆撃で破壊されて、残ったのは下の3段だけ。上の段は今では見分けがつかないほど見事に復元されています。

多くの領邦国家が分立していた時代に生きていたゲーテはドイツ統一を夢見ていました。
「(略)ドイツのターレルやグロッシェンが全国で同一の価値を持つために統一してほしいよ。私の旅行鞄が全部で三十六の国を通るたびに開かれないでも済むように、統一してほしいな。(以下、略)」
(エッカーマン『ゲーテとの対話(下)』岩波文庫 P235)
ターレルやグロッシェンはどちらも当時のドイツの銀貨。領邦国家の国境を通過するたびにパスポートの提示や両替が必要でした。
しかしゲーテは中央集権的な国を望んでいたのではありません。
「ドイツが偉大であるのは、驚くべき国民文化が国のあらゆる場所に均等に行きわたっているからだ。(以下、略)」(前掲書 P236)
1871年のドイツ帝国成立から、ナチスの時代や東西分断の時代を経て、今では連邦国家として統一されたドイツがあります。そして、ヨーロッパには欧州連合(EU)や、共通通貨ユーロもできました。
今日では、EU市民ならドイツからゲーテの好きなイタリアへは出入国手続きや両替の手間もなく行かれるようになり、ゲーテの夢も現実のものになりました。
さらに、今ではゲーテの生まれ故郷フランクフルト・アム・マインはヨーロッパの金融中心。
欧州中央銀行前にEUのロゴが燦然と輝いています。
