【ゴッホ殺人事件】ゴッホの死因は自殺ではなかった!
日本のみならず、世界中で圧倒的な知名度と人気を誇る画家、フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)。
生前精力的に描いた油彩画は全く売れず、弟テオからの仕送りだけを頼りに生活をしていたゴッホ。
彼がもし今の時代に蘇ったら自分の作品が何百億で落札されたり、毎年どこかで「ゴッホ展」が開催されていることに驚嘆することでしょう。
フィンセント・ファン・ゴッホ「自画像」1887年春、パリ。油彩。デトロイト美術館
37歳という短い生涯を閉じるまで、ゴッホには数多くの「物語」が存在します。それらがゴッホ人気に一役買っているのです。それはいずれも「悲劇」であるからこそ余計に。
20代で勤め先をクビになり、牧師(伝道師)を目指すも叶わず、やむなく画家の道を選んだのが27歳の時。つまり画家としてのゴッホの人生は10年しかないのです。
日本の浮世絵や、モネなどの印象派の影響を受けつつも自分の作品を模索し、パリを離れ南仏のアルルへ。アルルの地で画家の共同体を作ること夢見、パリからゴーギャンを呼び寄せます。
アルルで共に絵画制作に励むゴッホとゴーギャン。映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」より。
しかし、個性の超強い二人の画家が共に絵画制作に取り組めるはずもなく、すぐさま度重なる意見や絵画論の違いからゴーギャンはアルルを去りパリへ戻ってしまいます。
元々精神薄弱だったゴッホは、自分の左耳を切り落としゴーギャンに「手土産」として渡そうとしますが、当然上手くいきません。切りたての耳を快く受け取る友人がもしいたとしたらそちらの方が問題ありですが…
フィンセント・ファン・ゴッホ「包帯をしてパイプをくわえた自画像」1889年。個人蔵。
映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」より。
小さな田舎町アルルにもうゴッホの居場所はありませんでした。変人奇人扱いを受け、益々精神的に追い詰められていきます。芸術家のユートピアを目指したその地を去らねばならなくなります。
精神病の発作を繰り返すようになり、ついにゴッホは南仏のサン=レミにある精神病院に治療のために入院させられます。
発作や幻覚に苦しみながらも、サン=レミで晩年に「星月夜」「麦刈る男」「花咲くアーモンドの木の枝」「糸杉と星の見える道」「カラスのいる麦畑」「ドービニーの庭」といった名作中の名作を数多く描きました。
フィンセント・ファン・ゴッホ「麦刈る男」1889年。ゴッホ美術館蔵
この頃からパリでは少数ではありましたが、ゴッホを評価する人々が現れはじめます。初めて作品が売れたのもこの時期です。
やや落ち着きを取り戻したゴッホは、サン=レミの療養所を退所し、弟テオの息子で自分の甥にあたるフィンセント・ヴィレムに会いにパリまで出向いています。
映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」より。
パリから30キロほど離れたオーヴェル=シュル=オワーズが、ゴッホの終焉の地となります。ポール・ガシェ医師の治療を受けながら、農村で絵画制作に明け暮れました。
しかし、オーヴェル=シュル=オワーズでの生活は、1890年5月からたったの二か月で終わりを迎えます。同年7月にゴッホは還らぬ人となってしまうのです。
フィンセント・ファン・ゴッホ「医師ガシェの肖像」1890年6月。個人蔵。
7月27日の日曜日。普段とおなじように絵具とキャンバスを携え、野外にスケッチに出かけたゴッホですが、夕方町に戻ってきた時には何も持たず、ふらふらとした足取りだったそうです。
町の人たちは売れない画家が昼間から飲んだくれて…と冷たい視線を送っていたのでしょう。ゴッホの異変に気が付く人は誰もいませんでした。
医師ガシェ。映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」より。
彼の腹部には拳銃で撃たれた跡があり、治療の甲斐なく29日午前1時半にこの世を去りました。致命傷となった腹部の銃創はゴッホ自らが拳銃で撃ったものとされました。つまり自殺です。
ところがです。自殺としてしまうにはあまりにも不自然な点が多いのです。
生前精力的に描いた油彩画は全く売れず、弟テオからの仕送りだけを頼りに生活をしていたゴッホ。
彼がもし今の時代に蘇ったら自分の作品が何百億で落札されたり、毎年どこかで「ゴッホ展」が開催されていることに驚嘆することでしょう。
フィンセント・ファン・ゴッホ「自画像」1887年春、パリ。油彩。デトロイト美術館
37歳という短い生涯を閉じるまで、ゴッホには数多くの「物語」が存在します。それらがゴッホ人気に一役買っているのです。それはいずれも「悲劇」であるからこそ余計に。
20代で勤め先をクビになり、牧師(伝道師)を目指すも叶わず、やむなく画家の道を選んだのが27歳の時。つまり画家としてのゴッホの人生は10年しかないのです。
日本の浮世絵や、モネなどの印象派の影響を受けつつも自分の作品を模索し、パリを離れ南仏のアルルへ。アルルの地で画家の共同体を作ること夢見、パリからゴーギャンを呼び寄せます。
アルルで共に絵画制作に励むゴッホとゴーギャン。映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」より。
しかし、個性の超強い二人の画家が共に絵画制作に取り組めるはずもなく、すぐさま度重なる意見や絵画論の違いからゴーギャンはアルルを去りパリへ戻ってしまいます。
元々精神薄弱だったゴッホは、自分の左耳を切り落としゴーギャンに「手土産」として渡そうとしますが、当然上手くいきません。切りたての耳を快く受け取る友人がもしいたとしたらそちらの方が問題ありですが…
フィンセント・ファン・ゴッホ「包帯をしてパイプをくわえた自画像」1889年。個人蔵。
映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」より。
小さな田舎町アルルにもうゴッホの居場所はありませんでした。変人奇人扱いを受け、益々精神的に追い詰められていきます。芸術家のユートピアを目指したその地を去らねばならなくなります。
精神病の発作を繰り返すようになり、ついにゴッホは南仏のサン=レミにある精神病院に治療のために入院させられます。
発作や幻覚に苦しみながらも、サン=レミで晩年に「星月夜」「麦刈る男」「花咲くアーモンドの木の枝」「糸杉と星の見える道」「カラスのいる麦畑」「ドービニーの庭」といった名作中の名作を数多く描きました。
フィンセント・ファン・ゴッホ「麦刈る男」1889年。ゴッホ美術館蔵
この頃からパリでは少数ではありましたが、ゴッホを評価する人々が現れはじめます。初めて作品が売れたのもこの時期です。
やや落ち着きを取り戻したゴッホは、サン=レミの療養所を退所し、弟テオの息子で自分の甥にあたるフィンセント・ヴィレムに会いにパリまで出向いています。
映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」より。
パリから30キロほど離れたオーヴェル=シュル=オワーズが、ゴッホの終焉の地となります。ポール・ガシェ医師の治療を受けながら、農村で絵画制作に明け暮れました。
しかし、オーヴェル=シュル=オワーズでの生活は、1890年5月からたったの二か月で終わりを迎えます。同年7月にゴッホは還らぬ人となってしまうのです。
フィンセント・ファン・ゴッホ「医師ガシェの肖像」1890年6月。個人蔵。
7月27日の日曜日。普段とおなじように絵具とキャンバスを携え、野外にスケッチに出かけたゴッホですが、夕方町に戻ってきた時には何も持たず、ふらふらとした足取りだったそうです。
町の人たちは売れない画家が昼間から飲んだくれて…と冷たい視線を送っていたのでしょう。ゴッホの異変に気が付く人は誰もいませんでした。
医師ガシェ。映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」より。
彼の腹部には拳銃で撃たれた跡があり、治療の甲斐なく29日午前1時半にこの世を去りました。致命傷となった腹部の銃創はゴッホ自らが拳銃で撃ったものとされました。つまり自殺です。
ところがです。自殺としてしまうにはあまりにも不自然な点が多いのです。