【鑑賞ヒント♪】クリムトが描いたファッションの秘密と闇
★グスタフ・クリムト《エミーリエ・フレーゲの肖像》(1902年)ウィーン・ミュージアム(『ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への旅』にて撮影)
「エミーリエを呼んでくれ」
19世紀ウィーンの画家クリムトは、56歳で死を迎える前に言ったそうです。生涯独身を貫いたものの、多くの女性と交流があったグスタフ・クリムト。彼が最後に名前を呼んだのは、「エミーリエ・フレーゲ」でした。
クリムトとエミーリエ
《エミーリエ・フレーゲの肖像》は、クリムトが彼女を描いたと判明している数少ない作品の一つです。モテ男で売れっ子の画家の絵だったら、たとえ悪魔のようなブサイクに描かれていても喜んでしまいそうですが、エミーリエは違いました。彼女はこの絵を気に入らなかったのです。
なぜ?もっと美人に描いて欲しかった?違う色が良かった?着ている服が気に入らないの?
■コルセットが消えた絵
グスタフ・クリムト《ソーニア・クニップスの肖像》(1898年)ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館
《エミーリエ・フレーゲの肖像》は、ファッション史でも重要な作品です。体をきつく締め上げるコルセットから女性が解放されているから、ですね。
19世紀はじめのヨーロッパの「女らしさ」とは、胸を上げ、腰を締め、お尻を後ろに突き出す無理な姿勢でした。男に選ばれるための「女らしさ」を演出する道具が、「拷問器具」とまで呼ばれたコルセットです。
男性に養ってもらう他に生きる術が無い当時の女性たちは、自ら進んでコルセットを身につけざるを得ません。男性だって、女性の美しさを重視したでしょう。社会の悪循環によって、女性の体はどんどんキツく締め付けられていきます。
☆グスタフ・クリムト《接吻》(1907-1908年) ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館(本作はクリムトとエミーリエを描いたのでは?とする説があります)
一方、アパレルブランドを経営し、精神的にも経済的にも自立していたエミーリエは、コルセットなど身につけません。男性に依存しない生き方を求め、自らデザインした「改良服」は、ウィーンの女性たちに受け入れられていきました。
クリムトはエミーリエの性格を理解していたし、彼女の内面を表現するために、ツンとした表情を描いたのではないでしょうか。もちろん、コルセットの無い「改良服」で。
■クリムトの目に映る女性たち
☆グスタフ・クリムト《ユディトⅠ》(1901年) ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館
一方で、クリムトは自立した女性をどう捉えていたのでしょうか?クリムトのアトリエには常にモデルの女性たちが裸でいて、クリムトがウィンクをするとそのまま静止してポーズを取る…とまで言われていたほどですが。
ギリシャ神話で敵の将校の首を切り落とした強い女性ユディトですら、クリムトにかかれば恍惚の表情を浮かべます。果たしてクリムトは、エミーリエのような男に媚びない女をどんな風に愛していたのでしょうか?
■1枚の絵に込められた二人の関係
クリムトとエミーリエ
クリムトが亡くなった後、エミーリエは彼と交わした手紙をすべて焼き捨ててしまいました。その理由は分かっておらず、エミーリエとクリムトの関係は永久に二人だけの秘密となってしまいました。
クリムトはなぜ死の間際にエミーリエを呼んだのか?エミーリエはなぜクリムトが描いた彼女の絵が気に入らなかったのか?
★グスタフ・クリムト《エミーリエ・フレーゲの肖像》(1902年)ウィーン・ミュージアム
クリムトはエミーリエを尊敬していた、と言われています。エミーリエもクリムトを愛していたでしょう。でも、愛や尊敬だけでなく、微妙なすれ違いをも感じさせる関係です。
エミーリエが自分の描かれた絵を気に入らなかったのは、クリムトがあまりにも彼女の内面を鋭く描き出したからではないか、と感じます。多くの女性と関係を持ちながらも、彼女を深く理解してキャンバスにとどめた器用さを前に、素直になれなかったのではないでしょうか?
☆と★の作品はただいま来日中!
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