【飛行機怖すぎ】墜落事故が起こりまくった昭和41年という“最悪な年”

2018/9/14 19:42 服部淳 服部淳

どうも服部です。昭和時代をさまざまな形で振り返っていくシリーズ記事、今回は戦時中を除けば日本国内でこれほど墜落事故が相次いだ受難の年はないであろう、1966年(昭和41年)のできごとを取り上げます。

飛行機に乗る機会があると、もしかするとこれで最期になるのかもと、不安に思うことはないでしょうか。昭和を生きてきた世代にとっては、1985年(昭和60年)に起きた、520人の犠牲者を出した日航機墜落事故が脳裏に浮かぶかもしれません。



とはいえ、日本国内で起きた一般旅客機の墜落事故に限れば、日航機墜落事故の9年後となる1994年4月に起き、264人の死者を出した中華航空140便墜落事故を最後に、20年以上起きていないのです。飛行機が怖いと感じてしまうのは、一度墜落事故が起きると、高い確率で大勢が亡くなるという印象が強いからでしょう。

そんな多くないはずの墜落事故が、なぜか度重なってしまったのが、1966年(昭和41年)という年でした。



■1966年2月4日
1966年の1件目の事故は、年が明けて1カ月目の2月4日に起きました。北海道の千歳発の羽田行き全日空機(ボーイング727型機)が、羽田空港へ着陸寸前に姿を消したのです。


・画像引用:「朝日新聞縮刷版/朝日新聞社」

墜落現場付近で漁をしていた目撃者によると、黒煙と火の塊が海上に落ちるのを見たと証言していることから、飛行中に何らかの原因で出火し、操縦不能になり海に墜落したものと考えられています。懸命の捜索もむなしく、乗員・乗客合わせて133人全員が死亡。ジャンボジェット機登場以前の当時、一機による飛行機事故の死者数としては世界最多となりました。

この墜落したボーイング727型機は、事故の2年前の1964年に生産開始されたばかりの最新鋭のジェット旅客機で、その後1984年まで生産が続けられ、当時のジェット旅客機の最多生産数を誇る優良機として知られていますが、この事故の前年の1965年には、アメリカで4回の事故を起こしており、ちょうど安全性が問題視されている時でした。



さらに同事故の1週間後の2月11日には、大阪国際空港(伊丹空港)で、着陸しようとしていた日航機が、同じ滑走路を離陸しようとしている全日空機と鉢合わせ、着陸態勢にあった日航機が衝突寸前に急上昇したため事故になりませんでしたが、あわや大惨事となっていたところでした。


・画像引用:「朝日新聞縮刷版/朝日新聞社」



3月3日付の朝日新聞朝刊には、「全日空機遭難から一ヵ月」という見出しで、いまだはっきりとした事故原因がわかっていないことや、18体の遺体が見つかっていないという状況を伝えていました。もう二度と、こんな悲惨な事故は起きてほしくない……、この記事にはそんな願いがこめられていたことでしょう。


・画像引用:「朝日新聞縮刷版/朝日新聞社」



■1966年3月4日
しかしその翌日の3月4日、またもや羽田空港に着陸予定の飛行機、カナダ航空機(DC8型機)が進入高度が低すぎたために防潮堤に激突、炎上するという事故が起きました(厳密には墜落事故ではありませんが)。


・画像引用:「朝日新聞縮刷版/朝日新聞社」

事故は午後8時台に起きているので、新聞にて報道されるのは翌日、5日の朝刊となりました。乗員・乗客72人中、死者59、絶望4、生存者9人と発表されました(後の報道では死者64人、生存者は8人となっています)。くしくも、2月4日(金曜)に起きた全日空機事故と同じ「4日の金曜日」でした。



■1966年3月5日
このカナダ航空機炎上については、もちろん同日の夕刊紙でも一面記事として扱われていました。ところが、同じく一面の左側に目を移すと、なんと「英旅客機、空中分解」「富士山 墜落、死者多数か」と、別の飛行機事故のニュースも伝えていました。


・画像引用:「朝日新聞縮刷版/朝日新聞社」

墜落したのは、羽田空港発のBOAC(英国海外航空会社=ブリティッシュ・エアウェイズの前身)のボーイング707型機。羽田を出発した後に空中分解して富士山の中腹、太郎坊と呼ばれる辺りに落下したという絶望的なもので、乗員・乗客124人全員が死亡しました。

さらに驚くことに、同じ夕刊の社会面には、2月に墜落した全日空機の遺体捜索中の海上保安庁所属のヘリコプターがこの日墜落し、2人が不明(後に死亡が確認)というニュースが載っていましたが、2つの航空機大事故のはざまで、扱いは非常に小さいものでした。


・画像引用:「朝日新聞縮刷版/朝日新聞社」



■1966年3月10日
同年3月10日には、青森県で自衛隊機が墜落、1名が不明。3月だけで4件の航空事故が起きたということになります。


・画像引用:「朝日新聞縮刷版/朝日新聞社」



■1966年8月26日
8月26日には、日本航空の訓練機が羽田空港での離陸に失敗、滑走路脇に墜落炎上し、乗員5人全員が死亡するという事故も起きています。ここまで多発すると、何かが狂っている、もしくは呪われているとでもいいたくなります。



■1966年11月14日
1966年の墜落事故は、これだけでは終わりませんでした。大規模な事故としては、3月以降起きていませんでしたが(それが普通ですが)、11月14日、松山空港に着陸予定の全日空の国産旅客機、YS11型機が空港から3キロ沖に墜落。乗員・乗客50人全員が死亡しました。


・画像引用:「朝日新聞縮刷版/朝日新聞社」

同機は一旦、松山空港に接地しましたが、滑走路中央付近で、そのままではオーバーランしてしまうため再び離陸、その後墜落したといいます。1度目でオーバーランしてでも着陸しておけばどうなったのだろうかと、考えずにはいられません。



下の画像はこの年の大晦日の朝日新聞朝刊に掲載された1966年を振り返る記事ですが、「あい次いだ空の惨事」と大きく取り上げられ、記事中には「まさに航空界にとって“最悪な年”」と評されています。他にも「交通事故死は新記録」と、交通戦争といわれた時代を象徴するニュースもありました。航空界だけでなく、交通全般にとって悲惨な年だったようです。


・画像引用:「朝日新聞縮刷版/朝日新聞社」



7件の航空事故が起き、計379人が亡くなった1966年という年。こんな年に航空機に乗られてた方は、まさに覚悟を決めて搭乗したことでしょう(著者だったら断固拒否したいです)。その後、自動操縦機能(オートパイロット)の高性能化や、航空管制へのコンピュータ導入などで、格段に安全になってきていますが、それでも完全にはなくならない飛行機事故。より一層の技術進歩を願うばかりです。

(服部淳@編集ライター、脚本家)

※最新記事の公開をFacebookページTwitterにてお知らせしています(「いいね!」か「フォロー」いただくと通知が届きます)。