「日本の道路は信じがたいほど悪い」と酷評された昭和30年代の川崎市の様子
どうも服部です。昭和の映像を紐解いていくシリーズ、前回に引き続き、神奈川県川崎市のYouTubeチャンネル「映像アーカイブ川崎市」から映像をピックアップしていきます。
現在の日本の道路事情からすると考えにくいですが、昭和30年代初頭までの日本の道路は酷い状態でした。終戦から11年経った1956年(昭和31年)、建設省(現・国土交通省)が米国の調査団に依頼し、日本の道路状況について視察をしてもらっているのですが、その際まとめられた報告書によると、「日本の道路は信じがたいほど悪い」「工業国にして、これほど完全に道路網を無視してきた国は、日本のほかない」とまで酷評されていました。当時の一般国道の舗装率はわずか23%で、地方にいたっては9割以上が未舗装だったといいます。
そんな状況からどのようにして今日のようになるまで発展したのか、川崎市の映像から抽出して見ていきたいと思います。
【動画】「昭和30年03月16日 道路を愛護しましょう 0052」
まずは昭和30年3月付の「道路を愛護しましょう」というニュース映像から。冒頭部分は走行中の車内から撮影されていますが、未舗装道路をガタガタ揺れて走っています。土と砂利でできた道路なので、雨が降ればぬかるみ、デコボコになり、日照りが続けば砂埃が舞い上げるという、厄介なものでした。
こちらでは舗装道路の拡張工事でしょうか。周囲と比べると、水たまりもなく、真っ平らな舗装道路が、とてもありがたいものだと感じるシーンです。
煙突が建ち並ぶ工場街では、ロードローラーと人力で砂利道を修繕しているようです。
整地用途に使われる「モーターグレーダー」も、昨年(昭和29年)より導入したとナレーション。
くぼみができて水たまりになっている箇所などを、ならしていきます。
とはいえ、まだ人力に頼るところが多いようで、ショベルで土をすくっています。
「せっかく完成した道路を汚さないように、清掃局でも毎日ゴミの始末に苦労しています」とナレーション。ゴミを路上にポイ捨てする人も少なくなかったようです。
最後は舗装された市街地を捉えて1本目のニュース映像は終わります。道路の真ん中を歩いている人もいて、のんびりとした光景ですね。
【動画】「昭和31年05月01日 立体交差道路開通 0066」
続いては、「立体交叉道路開通」という昭和31年5月1日付のニュース映像から。
川崎市内の立体交差道路が完成したのだそうですが、
実はこの立体交差、工事が開始になったのは昭和7年(1932年)のこと。戦争の影響で工事は延び延びになり、掘り下げられたところには雨水がたまって、池のようになってしまっていました。
「ここはあぶない 水あそび 魚つり するな」と注意書きが。ナレーションいわく「いく人かの子供が水死するという事件もありました」とのこと。柵もないし、本当に危ない。
昭和27年(1952年)に工事が再開され、
ようやく昭和31年に完成したというわけです。昭和7年の工事開始から実に24年を費やしてのことです。関係者の喜びもひとしおでしょう。
【動画】「昭和32年02月20日 伸びる市民の足 0081」
次は昭和32年2月20日付の「伸びる市民の足」というニュース映像を見てみましょう。本題の道路事情とは多少異なりますが、公共交通機関の整備も、都市を発展させるには欠かせないことです。
朝の通勤風景のようです。昭和20年(1945年)4月4日の大空襲で工場地帯や市の大半を焼き払われ、人口も半数以下に落ち込んだ川崎ですが、戦後11年半が経ったこの頃には、戦前以上の人口を有するまでになっていました。
しかし、川崎市では戦後の発足にも関わらず、急増する人口に対応できるまでの公共交通機関を整備しつつあるようです。市電、トロリーバス、バスの3つで、1日に8万2千人を運んでいたそうです。
一番台数の多いバスの車庫は、このようにギッシリ。
電車のように架線から電力を取って走るトロリーバスは、昭和26年(1951年)から1967年まで、わずか16年の間だけ走っていました。貴重な現役当時の姿です。
線路を走っているのは、戦争末期の昭和19年(1944年)10月に開業した川崎市電です。市電も、トロリーバスの2年後となる1969年に廃止となっています。
ところが、予想以上の早さで住宅地は郊外へと広がっていったようで、そういうエリアへはバス路線を拡張しているとのこと。市電やロータリーバスは、線路や架線を引かなくてはならず、即時に対応できないというのも、廃止になる要因となったのでしょう。
そんな郊外をゆくボンネットバス。道路はまだ未舗装のようです。
【動画】「昭和36年04月25日 65万人の玄関 0148」
最後は、少し時代は飛んで昭和36年(1961年)4月25日付の道路整備もだいぶ進んだ頃の 「65万人の玄関」というニュース映像から。この映像だけ画面比率が異なります。
昭和34年(1959年)に完成した川崎駅の駅ビルのようです。神奈川県で初めての駅ビルだったとか。
川崎市の人口はこの年の4月に65万人を突破、この当時は全国一の人口増加率を誇ったそう。その後も増加を続け、昭和39年には80万人、昭和42年には90万人、昭和48年には100万人を超えています。
今や懐かしの駅の有人改札です。川崎駅の1日の乗降利用者は32万人で、東京鉄道管理局(国鉄=現・JR)内では、新橋に次ぐ2番目だったのだそう。
同じく川崎駅構内の様子です。ちなみに、2016年の「JR東日本エリア内の1日平均の乗車人員」を見てみると、1位は新宿、2位池袋、3位東京と続き、新橋は7位、川崎は11位となっています。時代の移り変わりを感じます。
駅前ロータリーからバスに乗り込む乗客たち。川崎駅でバス、市電、トロリーバスに乗り換えする人数は、朝が8万、夕方が10万ということで、昭和32年の1日8万2千人と比べ、倍以上となっています。恐るべし。
駅前ロータリーは、この混雑ぶり。
この混雑に拍車を掛けているのが、駅前に2ヵ所ある私鉄(京浜急行)の踏切、とナレーション。道路が整備されていっても、次々と新たな問題が出て来るものです。
映像の最後に取り上げられていますが、京浜急行の線路はすでに高架式にすることが決まっていて、この映像の5年後となる昭和41年(1966年)に 京浜急行本線が高架化されています。
他にも、第一京浜国道(国道15号線)と第二京浜国道(国道1号線)を結ぶ府中県道(府中街道)の混雑が増しているようです。
横須賀線でしょうか、国電のガード下もこの混みよう。
車両だけでなく、人も通行しているので、かなり危険な状態です。
混雑緩和のため、道路の拡張や地下道の新設などが急ピッチで行われていたそうです。
川崎市の例だけを見ていきましたが、日本各地で道路の舗装化、新設、拡張、そして鉄道の高架化などが目まぐるしく行われていき、現在のような快適な道路事情(もちろん完璧ではないですが)になっていったのです。先人たちに感謝です。
なお、「映像アーカイブ川崎市」では、川崎の昔の映像を募集しているので、もしお持ちの方でご提供可能な方は【こちら】からぜひご協力ください。引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。
(服部淳@編集ライター、脚本家)
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※参考文献
・わが町の歴史・川崎/村上直 編著(文一総合出版 1981)
・昭和生活文化年代記3 30年代/諸井薫 編(TOTO出版、1991年)