【昭和20年代の川崎】91人が狂犬に噛まれ…全国一の狂犬が発生していた時代の映像

2017/8/4 20:56 服部淳 服部淳


どうも服部です。昭和の映像を紐解いていくシリーズ、今回は神奈川県川崎市のYouTubeチャンネル「映像アーカイブ川崎市」から、昭和20年代の衛生状態を伝えるニュース映画(1本あたり30秒から1分程度)を取り上げました。

【動画】「昭和27年11月20日 野良犬をなくそう 0011」


まずは「野良犬をなくそう」というタイトルのニュース映像から。


赤ちゃんをおんぶしながら犬を連れている女性がやって来ます。

昭和27年当時の川崎市は、全国で一番の狂犬発生の町となったようで、51頭の狂犬に91人が噛まれ、2人が亡くなるという状態だったそうです。

厚生労働省の資料によると、1953年(昭和28年)の狂犬病の「我が国における発生状況」という調査結果では、犬の発生数は176頭、人間の死亡者数3人ということで、同年ではないので単純比較はできませんが、いかに川崎市での被害が多かったかがうかがわれます。


犬の飼い主たちが集まってきたのは、保健所でしょうか。


読みにくいですが、手にしているのは「愛犬手帳」のようです。


狂犬病の予防注射でしょう、犬も痛そうな仕草をしています。公益社団法人 大阪府獣医師会の「日本の狂犬病の歴史」によると、日本での狂犬病は、明治時代から大正時代にかけ急増していたが、1918年(大正7年)に初めて狂犬病の予防接種をはじめると、予防接種を行なった東京、神奈川周辺では徐々に減り始めていったそうです。

しかし、関東大震災で首都圏が壊滅的被害を受けると、その翌年である1924年(大正13年)には東京で700件以上、神奈川県で200件以上、全国でも史上最多の狂犬病発生数となります。これを受け、1925年から飼い犬の予防接種と野良犬の捕獲を強化していったのだそうです。




昭和27年当時に戻ります。市では、飼い犬は繋いでおくようにと市民に呼び掛けていたそうです。そして自転車に乗って向かってくる集団が捉えられます。「犬捕獲人 川崎市」の腕章を巻いています。


捕獲人は、繋がれていない犬を見つけると捕まえて、


トラックに積み込んでいきます。


捕獲された犬たちは、心なしか悲しそう。戦前には減少傾向にあった野良犬でしたが、戦中・戦後、人間だけでも食べていくのが精一杯という時代に、犬を手放す家庭が続出、再び増加してしまったそうです。これら野良犬も、戦争の犠牲者(犬)だったといえるでしょう。


こちらは処分された犬たちの合同慰霊祭の模様。厚生労働省の「狂犬病に関するQ&Aについて」によると、「日本国内では、人は昭和31年(1956年)を最後に発生がありません。また、動物では昭和32年(1957年)の猫での発生を最後に発生がありません」とのこと。

映像の4年後には狂犬病を撲滅させることができたのも、全国の衛生当局の働きと、次々と処分された犬たちの犠牲によるものでした。



【動画】「昭和27年05月22日 くみとりの機械化 0003」


続いての映像は、「くみとりの機械化」というタイトル。10代、20代には、見たことないという方も多いのではないかと思われる「汲み取り式トイレ」と、その処理についてのニュースです。


「伝染病の発生期を控え」とナレーション。映像の日付は5月22日なので、梅雨入り前です。ポリバケツのゴミ箱が登場する以前、道路に備え付けられていた木製ゴミ箱に消毒液を撒いています。


そしてやって来たのが、このニュースのメインである「真空吸い上げ車(バキュームカー)」。昭和20年代は一般庶民の生活に水洗トイレは普及しておらず、排泄物は便器の下の「便槽」に溜まり、その溜まったものを適宜汲み上げるという「汲み取り式」トイレが普通でした。


バキュームカーは、タンク内の空気を抜いて真空状態にして排泄物を汲み取りますが、当時はタンクの中の空気をそのまま放出していたため、臭いが周囲に広がり結構悪臭がしたようです。


見ている子供たちは、鼻をつまんでいます(ちょっとやらされている感じがしますが)。

このニュースではまったく紹介されていませんが、実は当時の川崎市は衛生対策の機械化で全国の最先端をいっていた地方自治体だったのです。そこで、同じくバキュームカーについて触れている、昭和31年のニュース映像も見てみたいと思います。



【動画】「昭和31年05月16日 皆さんのあと始末 0067」


昭和31年5月16日の「皆さんのあと始末」というタイトルです。なお、実際の映像の流れとは多少順番を入れ替えて紹介していきます。


バキュームカーに関しては、映像の0:57頃から始まります。昭和27年当時の映像と比べると、形が少し進化しているようです。ナレーションいわく「25年から使用されている真空式汲み取り自動車40台が活躍しています」。

サラっとした紹介ですが、昭和25年は、川崎市の清掃課に世界初の小型真空車(バキュームカー)が姿を現した年でした。なんと、川崎市が世界初だったのです(以下、書籍「バキュームカーはえらかった!黄金機械化部隊の戦後史」参照)。


それまでの日本のし尿処理といえば、室町時代から600年にわたり連綿と続くといわれる、上の画像のような肥桶(肥担桶)にし尿を入れ、天秤で担ぐというやり方で運ばれていました。しかし、人口が増加する一方の時代にあっては、これまでの方法では処理することができなくなってきていたのです。

そんな中、川崎市の初代清掃課長を務めた工藤庄八氏が中心となり、バキュームカーを開発したのです。


バキュームカーのホースを「便槽」に入れている場面のようですが、ホースの太さ(太すぎると吸引力が弱まるし、細すぎれば詰まりやすくなる)にいたるまで、研究が繰り返されてできたのだそうです。




集めたし尿は、一部は当時まだ肥料と使われていたため農家に提供し、残りの大半は上の画像にある「し尿運搬船」で海洋投棄していました。当時は房総半島の先あたりに放流していたようです。

これは川崎市に限ったことでなく、陸上の「し尿処理施設」が整う時代まで続けられていて、川崎市では1976年(昭和51年)まで行われていたそうです(東京や横浜市ではそれ以後も行われており、海洋投棄が廃止になるのは2007年のこと)。




同映像の冒頭に戻ると、ごみ収集について触れています。それまでのごみ収集は、上の画像のように人力の大八車が使われていました。


こちらは途中チラリと映る昭和30年前半の川崎市の街並み。




「去年からはスクリューを回転させてタンクの中にゴミを詰め込む非常に衛生的な新鋭車を使用。すでに大型小型合わせて8台が連日出動してその能率を上げています」とナレーションが紹介するのは、現代のものに近いごみ収集車。去年からということで昭和30年から使用されていることになりますが、こちらも同じく川崎市の清掃課長・工藤庄八氏らが、日本で最初につくったのだそう。


素晴らしいアイデアマンであった工藤氏によって、川崎市はもとより、日本全国の衛生事情が先進化したといっても過言ではないでしょう。その後、工藤氏は川崎市の助役も務められたそうです。サイドストーリーを知ると、より興味深く見ることができますね。

当時の衛生事情を伝える映像として、他にも川崎市の各家庭にネズミが平均15匹いると計算されていた時代のネズミ対策や、蚊やハエが湧かない町づくりについての映像もありますので、興味があれば30秒ほどの映像なのでぜひご覧ください。



【動画】「昭和28年12月16日 ネズミの駆除は今がチャンス 0031」


【動画】「昭和28年06月18日 蚊や蝿のいない町に 0021」


なお、「映像アーカイブ川崎市」では、川崎の昔の映像を募集しているので、もしお持ちの方でご提供可能な方は【こちら】からぜひご協力ください。引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。

(服部淳@編集ライター、脚本家)

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※参考文献
・バキュームカーはえらかった!黄金機械化部隊の戦後史/村野まさよし 著(文藝春秋 1996)