戦後日本で右書きの横文字が左書きに変わった瞬間をさぐってみた(再掲)

2024/12/30 00:00 服部淳 服部淳

※過去の記事を編集して再掲しています

どうも服部です。昭和時代をさまざまな形で振り返っていくシリーズ記事、今回はタイトル通り、日本語の横書きの書き順について調べていきたいと思います。

現在、日本語の横書きは左から右に向かって書きますが、1945年(昭和20年)の終戦前の書籍や映像などを見ると、反対に右から左に書かれているものを目にします。これがいつ頃、なぜ現在のように変わっていくのかというのが今回のテーマです。


【1926年(昭和元年)12月28日の朝日新聞に掲載されていたカルピスの広告】



■そもそも日本語に横書きはなかった
そもそも日本語は右から左方向に縦書きするものであって、横書きをするのは名称や店名などを横長の額や看板に書くような場合に限られ、縦書きと同じように右から左に向けて書かれていました(正確には「1行1文字の縦書き」というようです)。

事態がややこしくなるのは、西洋文化が一般にもどしどし入って来る明治時代以降です。英語をはじめとする欧米文化では文字は横書きで、左から右に書きますし、算用数字(アラビア数字)も同様です。

新たに作られた英和辞書や英語の参考書などは、当初は英語の横に日本語の縦書きを90度左に倒して併記してましたが(その逆もあり)、読みにくいため、やがて日本語の横書きが使われるようになっていきます。書く方向も、欧米文字に揃えて左から右に書かれていました。



■戦前でも左から右に表記することはあった
ということで、実は日本語の横書き文章は左から右方向で始まっていたのです。

一方で、それに立ちふさがるのは、明治時代以前から看板などで使われていた右書き文字です。店の看板の他、新聞の見出し文字、雑誌の題字なども主にこの形式が取られていました。また、紙幣や硬貨、郵便切手など国が発行する券面の表記も右書きでした。

書籍「日本語大博物館 悪魔の文字と闘った人々」によると、その他にも「鉄道の場合は切符が左横書き、出札口の表示が右、食堂車や寝台車は左、大阪行急行は右という具合で(後略)」、つまり横書き表示の書き順は統一されていなかったのです。

Hanwa Tennoji station 1938.jpg
By 不明 - scanned from p.70 of Railway Pictorial No.828, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9814516


上の写真は1938年(昭和13年)10月頃の大阪の天王寺駅を写したものだそうですが、「紀州沿岸の魚釣」「砂川遊園」「ハイキング割引」と、駅前の看板はいずれも左書きで、唯一、写真右上にある「阪和食堂」だけ右書きになっています。


もう1つは、大正15年12月24日の朝日新聞紙面から。大正から昭和に変わる前日のことです。広告を見てみると「三共ヴィタミンA」や「オキシフル」などは左書き、「セキトメ ボンボン」だけが右書きという状況。バラバラで読みづらいです。



■実は左書きへの統一の決定は戦時中にされていた
横書きが増大していく中、国もこのよろしくない状況に懸念していました。太平洋戦争開戦翌年である1942年(昭和17年)に、文部省(現・文部科学省)主導で左書きへの統一の動きが打ち出されます。

著者を含む多くの人が持っていた、終戦後に右書きから左書きに変わったという印象から、連合国の占領政策の一環かと思いきや、日本の省庁による、しかも戦時中の決定だったのですね。

しかし、戦時中ということで、敵国が使う欧米文字の並びに揃えることに反対する声も大きく、新聞をはじめ、左書きに踏み切るところは多くはなかったようです(味方であるドイツ、イタリアも同じなんですが)。



■いきなりではなく徐々に変わっていった
左書き統一を大きく前進させたのは、終戦でした。連合国による日本の民主化政策にともない、新聞紙上では国語の見直しが語られるようになり、合理化・簡素化した分かりやすい日本語表記(左書きへの統一もその一つ)にしていくべきだということが叫ばれるようになります。そんな中、新聞社で最初に動いたのが読売報知新聞(現・読売新聞)でした。


終戦の年の大晦日、1945年(昭和20年)12月31日の一面を見てみましょう。ちなみに読売報知新聞とは、戦争中の新聞統制により、1943年(昭和18年)8月5日に読売新聞が報知新聞と合併してできた新聞名で、終戦翌年の1946年5月には報知新聞と分割、再び読売新聞に戻しています。
※紙面上の赤枠は、著者が加えたものです(後述)。


こちらは紙面右上あたりを拡大したものです。「昭和二十年十二月三十一日」の日付、「総選挙と幣原内閣」などの見出しも右書きです。


大東京火災(いくつもの合併を経て現・あいおいニッセイ同和損保)の広告と、時事新報の「元旦より復活再刊」という広告も右書きです。ちなみに時事新報は戦前の5大新聞の一つだったそうです。新聞の広告欄に他社の新聞の広告が入ってるんですね。


そして、赤枠で囲んだ部分を拡大したのがこちらです。「題字、横字の左書き統一」、続いて「元旦紙上から、本紙の編輯(集)革新」というお知らせ枠です。翌日である元旦より、横字を左に統一すると書いてあります。続く文章は以下の通りです。

「本紙は再建日本の民主主義革命遂行のため、真に国民大衆とともに進む新聞製作を企画して全社一致鋭意努力していますが、今回紙面の刷新をはかり、題字「讀賣報知」を上掲のごとく横位置に配するのをはじめ、横列文字は一切左書きに統一する等新聞界積年にわたる伝統陋習の形式を打破、その他編集方式一切の革新を断行し、もって新生日本を象徴する最も進歩的なる新聞として、明元旦紙上から全読者に見ゆることとしました。」

要約すると、「今まで縦書きだった新聞ロゴを横書きにすることと、横書き文字は左書きに統一するなど、新聞界の長年の悪習を打破していきます。翌日の元旦より全読者にお目にかかることになります」


そして翌日の元旦の紙面がこちらです。右端にあったロゴが中央に来ています。


紙面左中央にある見出しも左書きになっています。


シンプルすぎる「日新火災」と「帝国銀行」の広告もこの通りです。

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