山田裕貴が『どうする家康』本多忠勝役に選ばれたのは藤岡弘、と志村けんのお陰?

2023/1/20 18:30 龍女 龍女

『志村けんとドリフ大爆笑物語』(2021年12月27日 フジテレビ)

志村けん(1950年2月20日生れ)は、2020年3月29日に新型コロナウイルス感染症による肺炎で亡くなった。
ドラマは、所属事務所のイザワオフィスが企画した。
公式の追悼番組の中のTVドラマであった。
年末に、ドリフのコントの傑作選と共に放映された。
山田裕貴は、志村けん役に抜擢されたのである。

山田裕貴と志村けんとの繋がりは芸能界の歴史にも通じている。

ザ・ドリフターズの源流は大学生のバンド活動である。
しかし、大学を卒業したのは荒井注の二松学舎と仲本工事の学習院と高木ブーの中央だけである。
他のメンバーは高校までだ。
志村けんは、高校時代はサッカー部だった。
志村けんの笑いは、バンドマンの集団ザ・ドリフターズで鍛えられた間で絶妙なリアクションの芝居が基本にある。
それは文化系の笑いだけではない。体を張った言葉以上に分かり易い表現である。
山田裕貴も高校時代まで野球で鍛えた身体能力を基本に、文化系の笑いも交えた体を使った表現が出来る。

山田裕貴は、ザ・ドリフターズの古巣、渡辺プロが作った
ワタナベエンターテイメントカレッジ出身である。
渡辺プロの新人育成機関としては、かつては有限会社東京音楽学院の選抜メンバーで構成されるスクールメイツだった。
ドリフ大爆笑のオープニングで、バックで踊っているのがスクールメイツだ。
ここからスターにのし上がったのが、キャンディーズで『8時だよョ!全員集合』のアシスタントをしていた時期がある。

早稲田大学からジャズ・ミュージシャンになった渡辺晋(1927~1987)が起こしたのが渡辺プロである。
ザ・ドリフターズは、看板グループクレイジーキャッツの後輩バンドとして宣伝されて、プロデビューした。

志村けんは、本名ではない。
ザ・ドリフターズのメンバーは下の名前だけ芸名なのである。
きっかけはクレージー・キャッツのリーダーハナ肇(1930~1993)が初対面の時に、いかりや長介に芸名を付けたのが始まりである。
いかりや長介(1931~2004 遠藤憲一)は、長一。
荒井注(1928~2000 金田明夫)は、安雄。
仲本工事(1941~2022 松本岳)は、興喜。
高木ブー(1933年3月8日生れ 加治将樹)は、友之助。
加藤茶(1943年3月1日生れ 勝地涼)は、英文(ひでゆき)


(『志村けんとドリフ大爆笑物語』の一場面から イラストby龍女)

そして、志村けんの本名は康徳(やすのり)である。
これは、徳川家康の徳と康を貰って、順を逆にした。
芸名の「けん」は父親の「憲司」からとっている。

志村けんはザ・ドリフターズのメンバー中最年少だった。
バンドマンの世界では、楽器の機材を運ぶ「ボウヤ」と言う付き人がいて芸人の世界の弟子に相当する。
数年が経って、コンビでマック・ボンボンを組んでみたが、すぐに解散した。
その矢先の出来事だった。
メンバー最年長の荒井注が売れすぎて多忙のため疲労困憊になり、脱退することになった。
ドラマでは全員集合の中で、交代の挨拶をするシーンが完全再現されている。
監督・脚本(佐藤さやかと共同)は福田雄一(1968年7月12日生れ)である。
福田雄一は当コラムでは、第1回で取り上げた映画作品『新解釈三国志』の監督・脚本家でもある。
晩年NHKのコント番組『となりのシムラ』で仕事をしている。
全6回の内、第1・2回で関わっている。
『新解釈三国志』の冒頭に登場する西田敏行の大学教授は、ドリフ大爆笑のもしもシリーズに出てくるいかりや長介の語りから、影響を受けているようだ。

『志村けんとドリフ大爆笑物語』は、クイーンのフレディ・マーキュリーの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』のように、その場面の完全再現は試みるがものまねに振り切らないように微調整して演出されている。


(若い頃の志村けん イラストby龍女)

しかしすぐに荒井注の抜けた穴は埋まらず、受けない日々が続いた。
突破口は「東村山は田舎だ」と下町の墨田区出身のいかりや長介に言われて、からかい半分に返した郷土の歌だった。
それが1976年の3月、全員集合の少年少女合唱団で披露された東村山音頭である。
元々は1963年東京オリンピックの前年に町おこしのために企画された曲だった。
民謡出身で全盛期だった流行歌手の三橋美智也(1930~1996)と下谷二三子が歌った。

地元の東村山で、徳川家康と関係のある地名と史跡が二つある。
板碑で元弘三年斎藤盛貞等戦死供養碑だ。西暦に直すと1333年で、鎌倉幕府が滅びた年である。
東村山音頭の元々の歌詞にある「久米川古戦場」と言う史跡と関係がある。
ここは、倒幕のために新田義貞(1301~1338)が駆け抜けた鎌倉街道の一部である。
戦いの犠牲者の供養塔として、徳蔵寺に保管されている。
徳川家康の時代よりも古いのになんの関係があるのか?
新田義貞はもともと室町幕府初代将軍足利尊氏(1305~1358)のライバルだった。
「徳川」とは元々新田氏の分家の家名だった。
家系改ざんとは観られているが、家康は、徳川家の権威づけのために新田義貞の事蹟を遺すように家臣に命じたと思われる。
もう一つは、「鷹の道」と言う街道名で、歴代将軍も鷹狩りで使っていた通り道だが、おそらく家康時代からではないだろうか?

志村けんの家名である「志村」は元々甲斐国にルーツがあるらしい。
人気バンドフジファブリックのヴォーカル志村正彦(1980~2009)は山梨県出身で、親戚ではないだろうが、志村のルーツは現在の山梨県に存在している。
志村一族は、武田家の滅亡に伴い一部は徳川家の家臣になって武蔵国に移住した。
現在でも、東村山に志村を名乗る一族は多く、安土桃山時代から江戸初期に移り住んだ子孫とみられている。

そこまで自分のルーツを知っていたわけではなかっただろうが、志村けんの有名キャラクターの一つ、バカ殿様の設定に徳川家康の影響は見て取れる。


(バカ殿様 イラストby龍女)

バカ殿様は、江戸時代の架空の藩、志村藩の藩主で、フルネームは分からない。
本多忠勝を最初に紹介したように、本名を直接呼ぶことは日本古来の慣習ではタブーである。
しかし、バカ殿の名前の一部は分かっている。
バカ殿には必ず幼少時代のコントが出てくる。
そこでは、竹千代と呼ばれている。
これは徳川家康の幼名であり、3代将軍家光も竹千代という幼名を与えられている。

山田裕貴の出身は、愛知県名古屋市である。
晩年の志村けんは舞台「志村魂」で座長を務め、全国を回っていた(2006~2019)。
その内2017年までは名古屋圏の公演は、中日劇場で行われていた(2018年3月に閉館)。

筆者はその公演があったある年の夏、地元にある和菓子屋で買い物をしていた。
その店名は、餅萬と言って、先代の社長は志村けんの同級生である。
店内にはイートインがあったので、そこで買ったお菓子を食べてお茶を飲んでいたところ、段ボールがおいてあった。
宛先を観ると、「中日劇場」とある。
それは志村けんが座員達に向けての差入をおくる直前の様子だったのである。
餅萬の名物は『だいじょうぶだァー饅頭』だ。
筆者のオススメは地元の酒蔵、豊島屋酒造の「東村山」を使った地酒 酒まんじゅうである。


和菓子、藤岡弘、志村けん。
この3つの要素が山田裕貴のまさかの本多忠勝役へのご縁だった。

ますます、『どうする家康』のサブストーリーとしての本多忠勝の活躍から目が離せなくなった。


※最新記事の公開は筆者のFacebookTwitterにてお知らせします。
(「いいね!」か「フォロー」いただくと通知が届きます)
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5