山田裕貴が『どうする家康』本多忠勝役に選ばれたのは藤岡弘、と志村けんのお陰?

2023/1/20 18:30 龍女 龍女

本多忠勝は、三河国の武将である。
日本の古い慣習では、本名を呼ぶことは言霊信仰でタブーとされる。
ドラマの中では通称の「平八郎」で呼ばれることが多いが、以下「忠勝」で統一する。


(山田裕貴が演じる本多忠勝 イラストby龍女)

1543年生れの主君、徳川家康とは5歳年下になる。

徳川家康の有力家臣の一人で、後世徳川四天王と呼ばれる。
他の3人は酒井忠次(1527~1596 大森南朋)
榊原康政(1548~1606 杉野遥亮)
井伊直政(1561~1602 板垣李光人)
である。


『どうする家康』では、第1回は1560年、本多忠勝の初陣である。
松平元康(松本潤)が大高城から逃げようとして、浜辺を歩いていた。
本多忠勝が馬に乗って槍を投げて引き留める。
初登場シーンはなかなか衝撃的だった。
調べていたら、忠勝が槍を使うのに背景が込められている事に気づいた。
忠勝が元々槍が上手いというイメージで語られることはない。
実は槍の名手は、忠勝の育ての親である叔父の本多忠真(1531/34?~1573 浪岡一喜)である。

本多忠勝は徳川四天王のなかでは特に同い年の榊原康政とは仲が良かったそうだ。
第2回は、榊原康政が初登場する。
元康ら岡崎の三河武士団が滞在した大樹寺。
松平家の代々の墓の前で切腹しようとする元康。
本多忠勝は介錯を務めると刀を構える。
ここで忠勝は、自分の生い立ちを語り始める。
祖父・本多忠豊(?~1545)と父・本多忠高(1526?28~1549)は
家康の祖父・松平清康(1511~1535)と父・松平広忠(1526~1549 飯田基祐)を守って討ち死にしたからだ。
この様子を廊下で立ち聞きしていたのが、重臣の石川数正(1534~1609 松重豊)と酒井忠次。
戸が閉まっていてふすま越しに聴いていたのが、榊原康政。
酒井忠次は気配を察して、戸を開ける。
「何者!」
康政はついつい立ち聞きしてしまったこと、寺で勉強中の武家の子息であると伝える。
師匠で大樹寺の住職・登誉天室(?~1574 里見浩太朗)に教えて貰ったある言葉の解釈を語る。
ドラマ上では、榊原康政が家康と交わしたの初めての会話となる。

大樹寺の言い伝えでは、登誉天室本人が家康を説得した言葉として
「厭離穢土欣求浄土」の意味を教えて切腹を思いとどまらせたという。
意味は「汚れた道を厭い離れて浄土のような道を追い求める」である。
極楽浄土のような場所を現実に作る、つまり平和を目指そうという解釈になる。
この8文字は、家康の旗印として有名になる。

「厭離穢土欣求浄土」は、大樹寺の宗派である浄土宗の根本思想である浄土教の理論書往生要集からの引用である。
著者は源信(942~1017)である。
浄土宗とは、この源信の数代後の弟子に当たる、法然坊源空(1133~1212)が開いた宗派なのだ。
回想シーンで家康の幼名で竹千代(川口和空)が
「地獄じゃ」
と、信長(岡田准一)と相撲しながらつぶやく。
当時の人々が共通認識として持っていた地獄像は往生要集の多大な影響下にある。
人が住んでいるこの現世も実は地獄である。
西洋のように天国と地獄ではなく、仏教では六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)の一つにしか過ぎない。
信者達は文字が読めない人も多かったから、往生要集を元にした地獄絵図を見せていた。
家康は、その前に大樹寺で死のうと思ったときに登誉上人に出逢った。
一見関係ない動きが、次なる「どうする」の解決策へ繋がる。

ちなみにかつて京都に「厭離穢土」を店名にしたジャズバーがあった。
筆者は学生時代ゼミの先輩に誘われて、飲みに行ったところ、失敗してしまったことがある。
店内に流れるジャズは官能的な空気を生み出して、まるで浄土であった。


忠勝は、武闘派だった。
一回も戦場で負傷したことがないのが自慢だったそうだ。
これはボクサーが顔面に傷がないことが自慢になることと同じで、攻撃だけではなく防御にも優れている事を示している。
まさに「攻撃は最大の防御である」
関ヶ原以降活躍の場がなくなり不遇だったそうだ。
そこで今に伝わる甲冑姿の肖像画を描かせたが、8回も描き直させたそうである。
その影響だろうか、筆者は歴史上の人物の肖像画の模写をこれまでもしているので、本多忠勝もやってみようと試みたが、かなり時間がかかりそうで難しく、断念した。

では、今回の山田裕貴の起用に関わる過去に大河ドラマで本多忠勝を演じた人物が今回他の役で登場している。
どういうことなのか?
次の頁で考えてみよう。

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