戦争画「作戦記録画」を深読みして見えてきたものとは?
こんにちは、いまトピアート部のyamasanです。
19世紀末から現代まで、日本や海外の美術作品を13,000点以上所蔵する東京国立近代美術館のコレクションの中でも異彩を放つのが、日中戦争からアジア太平洋戦争期に軍の委嘱で制作された戦争絵画「作戦記録画」。
敗戦後はアメリカが接収し、1970年に「無期限貸与」という形で返還され、150点あまりを東京国立近代美術館が管理(所蔵)していますが、私たちも同館のコレクション展でその片鱗を見ることができます。
そこで、今回は、少し変わった視点から作戦記録画を深読みしてみたいと思います。
はじめに紹介するのが、中村研一《珊瑚海海戦》。
中村研一《珊瑚海海戦》東京国立近代美術館
「珊瑚海海戦」は、連合軍の航空基地ポートモレスビー占領を企図した日本海軍と、それを阻止しようとする米豪海軍艦隊の間で、昭和17(1942)年5月7日から8日にかけて起こった海戦でした。
海戦というと、日露戦争の日本海海戦のように敵艦隊を発見して戦艦同士が主砲を撃ち合うという戦いが思い浮かびますが、「珊瑚海海戦」は史上初の空母対空母の対決、つまり双方の艦載機搭乗員以外は敵艦隊を見ないという新しいタイプの海戦だったのです。
(参加した空母は、日本側は機動部隊の「翔鶴」「瑞鶴」、攻略部隊の「祥鳳」、アメリカ側は「レキシントン」「ヨークタウン」)
「珊瑚海海戦」関連地図
《珊瑚海海戦》で描かれているのは、日本海軍の攻撃を受け、断末魔の米空母「レキシントン」。
中村研一《珊瑚海海戦》東京国立近代美術館(部分)
低い乾舷、艦首と飛行甲板が密着したエンクローズド・バウ、背の高い艦橋とその後ろにある巨大な煙突。
巡洋戦艦から改装された巨大空母「レキシントン」の艦容をよく現わしていますが、ここで「あれっ」と思われた方は、かなりの軍艦マニア。
そうです。
この海戦の直前に四連装機銃に装換されているはずの艦橋前には、装換前の15.5インチ連装砲が描かれているのです。
中村研一《珊瑚海海戦》東京国立近代美術館(部分)
それはなぜなのでしょうか?
おそらく、作者の中村研一は、海軍から提供された「レキシントン」の戦前の資料をもとに描いたのでしょう。
それは船体の塗装の色を見てもわかります。
珊瑚海海戦時には艦の側面はシーブルー(濃いブルー)、飛行甲板はデッキブルー(さらに濃いブルー)で塗装されていたのですが、この作品では艦の側面が明るいグレー、飛行甲板は赤茶色系で塗装された戦前のバージョンなのです。
さて、この「珊瑚海海戦」ですが、日本海軍は「レキシントン」を撃沈したものの、攻略部隊を護衛していた軽空母「祥鳳」が撃沈され、攻略部隊は撤退、作戦は失敗に終わります。
緒戦の米領ウェーク島攻略作戦の失敗に続き、南洋諸島を担当する第四艦隊はまたも作戦に失敗したので、海軍部内では又モ負ケタカ四艦隊と物笑いの種にされてしまいました。
この作品は、昭和18(1943)年12月から翌年1月まで東京都美術館で開催され、その後全国を巡回した「第2回大東亜戦争美術展」に出品されましたが、来場した日本国民は、まさか珊瑚海海戦が失敗した作戦だったとは夢にも思わなかったことでしょう。
大正から昭和にかけて活躍した洋画家・中村研一の作品は、東京・小金井市にある「中村研一記念 小金井市立はけの森美術館」で見ることができます。公式サイト⇒https://www.hakenomori-art-museum.jp
続いて藤田嗣治《アッツ島玉砕》。
藤田嗣治《アッツ島玉砕》東京国立近代美術館
アッツ島は、アリューシャン列島の最西端に位置する小さな島で、キスカ島とともに昭和17(1942)年6月に日本軍が占領したものです。
アッツ島玉砕関連地図
アメリカとしては、北方の小さな島々とはいえ「米国領」。日本軍に占領されていては面白くないので、奪還するため執拗な空爆を繰り返していました。
それに対して、アッツ島とキスカ島の戦力増強のための輸送作戦を担ったのが北方海域を担当していた第五艦隊ですが、米軍の攻撃の前に思うように進まず、昭和18(1943)月3月27日に起こったアッツ島沖海戦でも、待ち受けていた米艦隊に輸送船団の行く手を阻まれてしまいました。
そして、米軍が上陸したのが、同年5月12日。
大本営は反攻作戦も検討しましたが、優勢な米軍の前にあきらめざるを得ず、アッツ島放棄、キスカ島撤収の方針が打ち出されました。
《アッツ島玉砕》では、5月29日に守備隊長・山崎保代大佐はじめ残存兵力150人で夜襲をかけた時の様子が見事に描かれているのですが、「玉砕」という美名のもと、輸送作戦が失敗に終わったという日本軍の失態や、アッツ島守備隊2500人の将兵たちが祖国から見離されたという事実が隠されていたことを考えると複雑な思いで見ざるをえない作品なのです。
藤田嗣治《アッツ島玉砕》東京国立近代美術館(部分)
一方、キスカ島の撤収作戦は同年7月に行われ、5200人の守備隊将兵たちの救出作戦が成功しました。
その時の様子を描いたのが、昭和40(1965)年の東宝映画「太平洋奇跡の作戦 キスカ」です。
北海特有の濃霧を頼りに行われた救出作戦でしたが、一度は予想に反して霧が晴れたため艦隊はキスカ島目前にしながら、キスカ湾に突入することなく帰還。救出の望みを絶たれたキスカ島守備隊の中では、五艦隊ハ来 カンタイと言う言葉がささやかれました。
映画「キスカ」では、大本営や第五艦隊司令部からも「なぜ突入しなかった。」と非難を浴びる中、泰然と構えて次の機会をうかがっていた第1水雷戦隊司令官 木村昌福少将の役を見事に演じた三船敏郎の存在が光っていました(映画では「大村少将」)。
最後は、戦闘シーンでない作品を紹介します。
こちらは、京都国立近代美術館に所蔵されている、戦前から戦後にかけて活躍した京都画壇の日本画家、山口華楊の「南方スケッチ」。
山口華楊「南方スケッチ」 京都国立近代美術館
水上機や、それを整備する整備兵、飛行服に身を固めた搭乗員の姿が描かれていますが、どことなく南国ののんびりとした雰囲気が漂っています。
山口華楊「南方スケッチ」 京都国立近代美術館
山口華楊「南方スケッチ」 京都国立近代美術館
それもそのはず。
山口華楊が海軍省の嘱託として派遣されたのは、悲劇のインパール作戦で多くの将兵が犠牲になったビルマでもなく、連合軍の追走で、飢えと疫病に苦しめられながら長距離の撤退行軍を強いられたニューギニアでもなく、開戦当初の占領作戦でオランダ軍が降伏して以来、ほとんど戦闘らしい戦闘がなく、「天国」と言われたジャワだったからなのです。
それに現地の文化にも理解を示した占領軍司令官、今村均中将の人徳もあって、現地の人たちとの関係も良好で、山口華楊も、その場で生活する人たちののびのとした姿を描くことができたのです。
山口華楊「南方スケッチ」 京都国立近代美術館
華楊はボロブドゥール遺跡も訪れています。
寺院の回廊に描かれたレリーフは、画家にとって格好の写生の題材だったことでしょう。
さらに、バリ島にも足を延ばして、生き生きとしたスケッチを残しています。
山口華楊「南方スケッチ」 京都国立近代美術館
戦争はもちろん二度と起こしてはならないことです。
だからこそ、当時描かれた作品がどのような背景で描かれ、どのような意味合いを持つのか、これからも深読みしていきたいと考えています。
19世紀末から現代まで、日本や海外の美術作品を13,000点以上所蔵する東京国立近代美術館のコレクションの中でも異彩を放つのが、日中戦争からアジア太平洋戦争期に軍の委嘱で制作された戦争絵画「作戦記録画」。
敗戦後はアメリカが接収し、1970年に「無期限貸与」という形で返還され、150点あまりを東京国立近代美術館が管理(所蔵)していますが、私たちも同館のコレクション展でその片鱗を見ることができます。
そこで、今回は、少し変わった視点から作戦記録画を深読みしてみたいと思います。
又モ負ケタカ四艦隊
はじめに紹介するのが、中村研一《珊瑚海海戦》。
中村研一《珊瑚海海戦》東京国立近代美術館
「珊瑚海海戦」は、連合軍の航空基地ポートモレスビー占領を企図した日本海軍と、それを阻止しようとする米豪海軍艦隊の間で、昭和17(1942)年5月7日から8日にかけて起こった海戦でした。
海戦というと、日露戦争の日本海海戦のように敵艦隊を発見して戦艦同士が主砲を撃ち合うという戦いが思い浮かびますが、「珊瑚海海戦」は史上初の空母対空母の対決、つまり双方の艦載機搭乗員以外は敵艦隊を見ないという新しいタイプの海戦だったのです。
(参加した空母は、日本側は機動部隊の「翔鶴」「瑞鶴」、攻略部隊の「祥鳳」、アメリカ側は「レキシントン」「ヨークタウン」)
「珊瑚海海戦」関連地図
《珊瑚海海戦》で描かれているのは、日本海軍の攻撃を受け、断末魔の米空母「レキシントン」。
中村研一《珊瑚海海戦》東京国立近代美術館(部分)
低い乾舷、艦首と飛行甲板が密着したエンクローズド・バウ、背の高い艦橋とその後ろにある巨大な煙突。
巡洋戦艦から改装された巨大空母「レキシントン」の艦容をよく現わしていますが、ここで「あれっ」と思われた方は、かなりの軍艦マニア。
そうです。
この海戦の直前に四連装機銃に装換されているはずの艦橋前には、装換前の15.5インチ連装砲が描かれているのです。
中村研一《珊瑚海海戦》東京国立近代美術館(部分)
それはなぜなのでしょうか?
おそらく、作者の中村研一は、海軍から提供された「レキシントン」の戦前の資料をもとに描いたのでしょう。
それは船体の塗装の色を見てもわかります。
珊瑚海海戦時には艦の側面はシーブルー(濃いブルー)、飛行甲板はデッキブルー(さらに濃いブルー)で塗装されていたのですが、この作品では艦の側面が明るいグレー、飛行甲板は赤茶色系で塗装された戦前のバージョンなのです。
さて、この「珊瑚海海戦」ですが、日本海軍は「レキシントン」を撃沈したものの、攻略部隊を護衛していた軽空母「祥鳳」が撃沈され、攻略部隊は撤退、作戦は失敗に終わります。
緒戦の米領ウェーク島攻略作戦の失敗に続き、南洋諸島を担当する第四艦隊はまたも作戦に失敗したので、海軍部内では又モ負ケタカ四艦隊と物笑いの種にされてしまいました。
この作品は、昭和18(1943)年12月から翌年1月まで東京都美術館で開催され、その後全国を巡回した「第2回大東亜戦争美術展」に出品されましたが、来場した日本国民は、まさか珊瑚海海戦が失敗した作戦だったとは夢にも思わなかったことでしょう。
大正から昭和にかけて活躍した洋画家・中村研一の作品は、東京・小金井市にある「中村研一記念 小金井市立はけの森美術館」で見ることができます。公式サイト⇒https://www.hakenomori-art-museum.jp
五艦隊ハ来 カンタイ
続いて藤田嗣治《アッツ島玉砕》。
藤田嗣治《アッツ島玉砕》東京国立近代美術館
アッツ島は、アリューシャン列島の最西端に位置する小さな島で、キスカ島とともに昭和17(1942)年6月に日本軍が占領したものです。
アッツ島玉砕関連地図
アメリカとしては、北方の小さな島々とはいえ「米国領」。日本軍に占領されていては面白くないので、奪還するため執拗な空爆を繰り返していました。
それに対して、アッツ島とキスカ島の戦力増強のための輸送作戦を担ったのが北方海域を担当していた第五艦隊ですが、米軍の攻撃の前に思うように進まず、昭和18(1943)月3月27日に起こったアッツ島沖海戦でも、待ち受けていた米艦隊に輸送船団の行く手を阻まれてしまいました。
そして、米軍が上陸したのが、同年5月12日。
大本営は反攻作戦も検討しましたが、優勢な米軍の前にあきらめざるを得ず、アッツ島放棄、キスカ島撤収の方針が打ち出されました。
《アッツ島玉砕》では、5月29日に守備隊長・山崎保代大佐はじめ残存兵力150人で夜襲をかけた時の様子が見事に描かれているのですが、「玉砕」という美名のもと、輸送作戦が失敗に終わったという日本軍の失態や、アッツ島守備隊2500人の将兵たちが祖国から見離されたという事実が隠されていたことを考えると複雑な思いで見ざるをえない作品なのです。
藤田嗣治《アッツ島玉砕》東京国立近代美術館(部分)
一方、キスカ島の撤収作戦は同年7月に行われ、5200人の守備隊将兵たちの救出作戦が成功しました。
その時の様子を描いたのが、昭和40(1965)年の東宝映画「太平洋奇跡の作戦 キスカ」です。
北海特有の濃霧を頼りに行われた救出作戦でしたが、一度は予想に反して霧が晴れたため艦隊はキスカ島目前にしながら、キスカ湾に突入することなく帰還。救出の望みを絶たれたキスカ島守備隊の中では、五艦隊ハ
映画「キスカ」では、大本営や第五艦隊司令部からも「なぜ突入しなかった。」と非難を浴びる中、泰然と構えて次の機会をうかがっていた第1水雷戦隊司令官 木村昌福少将の役を見事に演じた三船敏郎の存在が光っていました(映画では「大村少将」)。
ジャワは天国、ビルマは地獄、死んでも帰れぬニューギニア
最後は、戦闘シーンでない作品を紹介します。
こちらは、京都国立近代美術館に所蔵されている、戦前から戦後にかけて活躍した京都画壇の日本画家、山口華楊の「南方スケッチ」。
山口華楊「南方スケッチ」 京都国立近代美術館
水上機や、それを整備する整備兵、飛行服に身を固めた搭乗員の姿が描かれていますが、どことなく南国ののんびりとした雰囲気が漂っています。
山口華楊「南方スケッチ」 京都国立近代美術館
山口華楊「南方スケッチ」 京都国立近代美術館
それもそのはず。
山口華楊が海軍省の嘱託として派遣されたのは、悲劇のインパール作戦で多くの将兵が犠牲になったビルマでもなく、連合軍の追走で、飢えと疫病に苦しめられながら長距離の撤退行軍を強いられたニューギニアでもなく、開戦当初の占領作戦でオランダ軍が降伏して以来、ほとんど戦闘らしい戦闘がなく、「天国」と言われたジャワだったからなのです。
それに現地の文化にも理解を示した占領軍司令官、今村均中将の人徳もあって、現地の人たちとの関係も良好で、山口華楊も、その場で生活する人たちののびのとした姿を描くことができたのです。
山口華楊「南方スケッチ」 京都国立近代美術館
華楊はボロブドゥール遺跡も訪れています。
寺院の回廊に描かれたレリーフは、画家にとって格好の写生の題材だったことでしょう。
さらに、バリ島にも足を延ばして、生き生きとしたスケッチを残しています。
山口華楊「南方スケッチ」 京都国立近代美術館
戦争はもちろん二度と起こしてはならないことです。
だからこそ、当時描かれた作品がどのような背景で描かれ、どのような意味合いを持つのか、これからも深読みしていきたいと考えています。