さらば永遠のヤングマン、西城秀樹がバブル時代に残した功績をふりかえる
こんばんは、バブル時代研究家のDJGBです。
歌手の西城秀樹さんがお亡くなりになりました。まだ63才の若さでした。
ヒデキといえば、やはり73~85年までCM出演したハウス「バーモントカレー」。訃報に接したハウス食品もお悔やみと感謝のコメントを発表しています。
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— gooニュース (@goonewsedit) 2018年5月17日
85年、「バーモントカレー」のCMはヒデキ、河合奈保子からジャニーズ(当時)の中村繁之、さらに少年隊の東山紀之へと引き継がれます。
いっぽうのヒデキは、85年以降、どんな道を歩んだのでしょうか。
今日は「バーモントカレー」以後のバブル時代のヒデキの活躍をふりかえり、昭和の大スターを偲びます。
■つくば万博でコスモ星丸と共演!
●「一万光年の愛」(85年)
記念すべきヒデキ50枚目のシングルがこちら。「国際科学技術博覧会“科学万博つくば '85”」、通称EXPO ‘85の開会式テーマソングです。そう、コスモ星丸のアレです。アイドルスターを卒業し、大人のアーティストとしての地位を確固たるものにしていたヒデキに舞い込んだのが、この国家的プロジェクトのテーマソングでした。
皇太子ご夫妻と礼宮(現在の秋篠宮殿下)を前に、およそ8分にわたって熱演するヒデキ&つくばの子供たちのステージがこちら。「コスモ星丸の歌」とのスペシャルミックスバージョンでどうぞ。
●つくば万博 開会式(85年)
■あのバリー・マニロウともデュエット!
●「腕の中へ~In Search of Love」(85年)
同じRCAレコードに所属するヒデキの「抱きしめてジルバ」を耳にしたバリー・マニロウが、「原曲(ジョージ・マイケルの「ケアレス・ウィスパー」)よりもいい」と気に入ったことから、世紀のデュエットが実現。
85年当時、外タレとここまで対等にわたりあえる日本のアーティストが何人いたことでしょう。
■「ヒデキ、カンゲキ!」から、「ジャワ原人」へ
●ハウス食品「ジャワカレー」(86年)
カレーライスを「国民食」と言われるまでに普及させたヒデキの功績に敬意を表し、ハウス食品は引き続き彼を大人向けの「ジャワカレー」のCMに起用。息の長い活躍を続けていたヒデキだからこその起用です。
こちらは北海道ローカルのレアなCM。牛乳を飲みながらダンスレッスンにいそしむヒデキ。
●ホクレン 牛乳(86年)
■33才で、アジアの架け橋に。
●「Try Today」(88年)
バブルを象徴する企業、原ヘルス工業の「バブルスター・ハンター」も、ヒデキにかかればこの色っぽさ。
この年に開催されたソウル五輪で、ヒデキはある歴史に残る偉業を成し遂げています。
前夜祭に招待されたヒデキは、当時韓国では禁じられていた日本の歌を熱唱。韓国語、日本語それぞれで歌い上げた「傷だらけローラ」は韓国のみならず世界中に中継され、人々に強い印象を残しました。
●ソウル五輪 前夜祭(88年)
80年代前半からアジアを舞台に活躍し、87年には北京・廣州でもコンサートを成功させていたヒデキ。90年には故郷広島で「広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』」をプロデュース。バブル期、ヒデキは日本だけにとどまらないスケールの大きな活動を繰り広げ、自らアジアの架け橋となっていたのです。
■実は“ビーイング系”の先駆けだった!
●「走れ正直者」(91年)
言わずと知れた「ちびまる子ちゃん」2代目EDテーマ。
この前年、長年所属したレーベルを離れ、ヒデキは楽曲プロデュースを音楽制作集団ビーイングに委託。ZARD、WANDS、T-BOLANといったアーティストがヒットを連発した90年代初頭のビーイングブームに先駆けての決断でした。
■どんな曲をカヴァーしても、“ヒデキの曲”に。
●「愛が止まらない」(95年)
「ヤングマン(Y.M.C.A、原曲はビレッジピープル)」から「バイラモス(原曲はエンリケ・イグレシアス)」に至るまで、ヒデキは欧米で流行した数々の名曲をカヴァーし、日本のお茶の間に届けてくれました。
中でもDJGBのおすすめは95年ノエビア・コスメティックルネサンスCMソング、「愛が止まらない」。原曲はカイリー・ミノーグの「Turn it into Love」ですが、ヒデキのこのバージョンは、Wink版「愛が止まらない」の、ヒデキ流カヴァーと言って差し支えないでしょう。
原曲を歌うのが男性だろうと女性であろうと、ヒデキが歌えば彼の曲に。底知れぬ歌唱力と表現力を持つ彼だからこそなせる業です。
■自らの人生を見通していたかのような「33才」。
ソウル五輪前夜祭で禁止されていた日本語曲を披露した88年、ヒデキはまだ33才でした。
前出「Try Today」のA面としてリリースされたシングルは、その名も「33才」。フリオ・イグレシアスの歌う原曲を聴き「33才になったら絶対この歌を歌いたい」と決めていたそう。
がむしゃらに生きて走り続けたが
いつの間にかぼくも今年33
すでに人生の半分に来た、時の速さに、かないやしない
(作詞・フリオ・イグレシアス・なかにし礼)
という歌詞は、今となってはその後のヒデキの人生を予言していたかのようです。
70年代、歌謡曲で一時代を築いたヒデキ。その地位に甘んじることなく、彼は85年以降も挑戦を続けました。90年代には元X JAPANのYOSHIKIプロデュースによるシングル「moment」、作曲・小林亜星との久々のタッグとなった「∀ガンダム」の主題歌でも話題に。二度の脳梗塞にも負けず、最後までステージに立とうとし続けたことは、ここで記すまでもありません。
昭和を、そしてアジアを代表するスターが、また一人、旅立ってしまいました。西城秀樹さん、どうぞ安らかに。
(バブル時代研究家DJGB)