落合信彦はマイク・タイソンとも戦っていた!アサヒスーパー【じゃないほうの】ドライたち

2017/8/30 10:30 DJGB DJGB


コクがあるのに、キレもありますか。

こんばんは、バブル時代研究家DJGBです。

メディアアーティストで、筑波大 学長補佐・助教の落合陽一氏が、実父の落合信彦氏について語った一連のツイートが話題です。


落合信彦といえば、

「大学時代に米国でブルース・リーに空手を教え、スパーリングで勝った」

「暗殺直前のJ.F.ケネディと面会し、弟のロバート・ケネディのボディガードを務めた」

「ドナルド・トランプに、ブラック・マンデー直前に株を売るようにアドバイスした」

といった破天荒すぎるエピソードで知られる作家・国際ジャーナリスト。CIAやモサドなど各国の情報機関にも幅広い人脈を持つと言われ、独自の取材に基づくベストセラーを多数世に送り出しています。

陽一氏は、巷で語られる父のエピソードが虚実ないまぜであることを指摘しつつ、父を一躍有名にしたあのCMについても驚きのツイート。


その「立ってるだけ」のCMがこちら。

●アサヒスーパードライ「飲むほどにDRY 辛口、生。」 (87年)


アラフォー世代以上にとって落合信彦といえば、「スーパードライ」の人

ちょうど陽一氏が生まれた30年前、アサヒの発売した「スーパードライ」は大ヒット。翌88年にはビール各社による「ドライ戦争」が勃発します。

今日は、バブル期に生まれては消えた各社の「ドライ」ビールをCMでふりかえります。


■「スーパードライ」と、落合信彦のインパクト

「スーパードライ」登場前夜のアサヒは、大手3社(当時)の中では最後方。最大手キリンのシェアが60%を超えていたのに対し、アサヒはシェア10%を割り込む、いわば“負け組”でした。

起死回生を狙ったアサヒは、消費者調査をもとに「さらりとした飲み口」「キレのある味」「高めのアルコール度数」が特徴の新しいビールを開発。87年3月に「アサヒスーパードライ」を発売します。



CMも俳優やスポーツ選手を避け、手垢のついていない人選に。「ドライ&ハード」という新しいビールのコンセプトに合致する人物として白羽の矢が立ったのが、落合信彦でした。彼は87~89年のまさにバブル期を通じて「スーパードライ」のCMに起用され、ブランドの確立に大きな役割を果たします。

●アサヒスーパードライ 「飲むほどにDRY 辛口、生。」(88、89年)


そのインパクトはいち企業のCMを超え、社会現象といってもいいほどでした。当時リリースされたCMソング「Special Woman」のレコードジャケットに「スーパードライ」片手の落合氏が用いられたほど。

●Special Woman(87年CMソング)


『アサヒビール・大逆転の発想――真の経営革新とは何か』飯塚昭男・著(扶桑社)によれば、落合氏はCMに出演した責任感から、毎月アサヒビールの宣伝課長に電話で「スーパードライ」の売れ行きを確認していたそう。陽一氏のツイートと合わせて味わいたいエピソード。


「スーパードライ」は87年、当初目標の100万ケースを大きく上回る1350万ケースを販売する大ヒットを記録。アサヒも、サッポロを抜いてビール市場でシェア2位に躍り出ます。


■覚えてる? あんな「ドライ」、こんな「ドライ」

88年になると、競合他社が続々と「ドライ」ビールを発売。マーケティング史に語り継がれる「ドライ戦争」をふりかえってみましょう。

●サントリードライ「飲み比べてください。」(88年)


当時ビールでは大手3社のさらに後塵を拝していたサントリーは、あのマイク・タイソンを起用して「ドライ戦争」に殴り込み。ブルース・リーにも勝ったことのあるという落合信彦に戦いを挑みます。小学生でも聞き取れるシンプルな英語が魅力。

●サッポロドライ「もっと、ドライに。もっと、うまく。」(88年)


対するサッポロはフォーク歌手の吉田拓郎、西武ライオンズ元監督の広岡達朗というシブい人選。

「ほかにも有名なプロ野球選手いただろうに、なぜ広岡?」と見えるかも知れませんが、当時の広岡は“管理野球”で西武常勝軍団の礎を築いた知将。論理的なマネジメントスタイルは、「ドライ」のイメージにピッタリでした。

加えて88年の広岡は“ポスト王”の最右翼として、たびたび時期巨人監督に名前が挙がる存在。その報道を意識してか、石田えりと広岡が東京ドームの前で「ドライ」を飲むバージョンも放映されました。

●サッポロクールドライ「渇きに、シャワーなビールです」(90年)


アサヒにシェアを奪われ業界3位に転落したサッポロは、89年、新たに「夏に飲むドライ」として「クールドライ」を投入。「ランバダ」が当時の世相を今に伝えます。R.I.P.カオマのボーカル

●キリンドライ「ドライなだけの、ドライではない」(88年)


圧倒的なシェアを誇っていたキリンもついに「ドライ戦争」に参入。なぜだか俳優のジーン・ハックマンを起用し、“本格派”を訴求します。

こちらは鈴木雅之が「夜のヒットスタジオ DELAXE」で熱唱する貴重な映像。

●「Dry・Dry」鈴木雅之(88年)


スポンサーを気遣う姿勢は素晴らしいですが、ビール缶を模したセットのデザインは残念ながら「スーパードライ」にそっくり。

お茶の間にしてみれば、メーカーごとのパッケージの区別などつくはずもありません。各社が「ドライ」「ドライ」と連呼すればするほど、「アサヒスーパードライ」が売れるという皮肉な状況が生まれ、結果「ドライ戦争」はアサヒの一人勝ちに終わりました。


■その後、各社と落合信彦は…。

85年に9.9%だったアサヒのビールシェアは89年、24.8%にまで上昇。いっぽう61.3%だったキリンのシェアは48.5%にまでに落ち込みます。「ドライ戦争」の勝負が決すると、各社は新しい方向に舵を切り始めました。

キリンは90年、製造時に自然に流れだす一番搾り麦汁のみを使った「一番搾り生ビール」を発売。CMキャラクターには、あえて深いシブみを感じさせる俳優の緒形拳が起用されました。

サントリーは「私は、ドライではありません。」のコピーとともに、麦芽100%の「モルツ」を投入(89年)。郷ひろみ、二谷友里恵夫妻(当時)のCM起用も話題に。

サッポロは夏用の「クールドライ」と並行して開発された冬用の「冬物語」がヒット。CMソングに槇原敬之の「冬がはじまるよ」が採用されたのは91年のこと。

いっぽうのアサヒも90~91年にかけて、海外で活躍する日本人をCM起用し続けますが、落合を超えるインパクト残す人物は現れず。92年、新しい「スーパードライ」の顔に任命されたのは、前年にコカ・コーラのCMで一気に知名度を高めた加勢大周でした。

●アサヒスーパードライ 加勢大周(92年)

幾多の新製品と広告費が、文字通り泡と消えたバブル期の“ドライ戦争”。

ふりかえれば、「スーパードライ」を打ち破るために開発された製品が、その後の各社を代表するブランドへと成長しています。長い目で見れば、“ドライ戦争”の勝者はアサヒだけではなかったのかもしれません。

が、本当の勝ち組は、誰よりも、落合信彦その人


[出典:勝ち組クラブ 落合信彦 公式ホームページ]

彼がバブル絶頂の89年で「スーパードライ」のCMを降板し、その後日本経済が低迷したのは、決して偶然ではないのかもしれません。

世界的な「ビール離れ」が叫ばれる昨今。

このニュー・カオスの時代、ビール業界は今こそ彼と再び手を携え、「秘密情報ルート」を使って米国中枢へのロビイングを強化すべし!


(バブル時代研究家DJGB)