90年代初頭の【東芝】の空気をテレビっ子視点で察してみた
こんばんは、バブル時代研究家のDJGBです。
日本を代表する企業のひとつ、東芝がいろいろと大変です。
2年前の不適切会計問題の発覚を受け、東芝はすでに医療機器を扱う子会社をキヤノンに、白物家電事業を中国の美的集団に売却。詳細は経済ニュースに譲りますが、報道によれば、テレビ事業などの売却も検討されているようです。
東芝テレビ トルコ大手が交渉と https://t.co/7lS8u45UyD #家電 #企業買収 #トルコ #今日のニュース
— gooニュース (@goonewsedit) 2017年4月10日
「サザエさん」「東芝日曜劇場」からはちょっとイメージがつきにくいですが、実のところ東芝のビジネスの多くはBtoB(法人向けビジネス)からもたらされています。いま売却が取り沙汰されているフラッシュメモリ事業は、その代表格です。
1992年、東芝は三重県四日市市に大規模な半導体工場を建設します。

[出典:東芝メモリ株式会社 四日市工場]
このとき東芝は、2種類あったメモリ技術のうち、パソコンなどに組み込まれるDRAMへの注力を優先したと言われます。もうひとつのNAND型メモリは、韓国・サムスン電子に技術供与されました。NAND型メモリはその後世界の主流となり、サムスン電子は現在では東芝の2倍近い売上を誇る世界シェアトップ企業に躍進しています。
あのとき、東芝はなぜNAND型メモリへの投資を決断できなかったのか?
当時を知る関係者からはNAND型メモリの技術をサムスン電子に供与した92年の決断を非難する声も聞かれるそうです。
が、とりたてて半導体業界に縁もなく、当時小学生で「サザエさん」「東芝日曜劇場」しか見ていない私には、その決断が正しかったかどうか、正直よくわかりません。
ということで、今日はひたすらテレビっ子の視点で、90年代初頭の東芝の空気を察してみます。
■テレビと言えばラベンダーマスクのBAZOOKAだナ。
●「BAZOOKA」 田村正和(89年)
89年、東芝は大型テレビの新ブランド「BAZOOKA(バズーカ)」を立ち上げます。そのウリは、黒色が締まって見える「ラベンダーマスク」と、重低音が響く「BAZOOKAウーファー」。当初CMに起用されたのは、細野晴臣、森川由加里、浅井慎平の3名でした。
●「BAZOOKA」 田村正和(89年)
ですが、おそらく多くのアラフォー世代の印象に残っているのは、独特の口調で「ラベンダーマスク」と語りかける田村正和のCMでしょう。当時の田村は、ドラマ「ニューヨーク恋物語 LOVE STORY IN NEW YORK」などでダンディさに磨きのかかった時期。さらに石橋貴明が「とんねるずのみなさんのおかげです」でこのCMのパロディを披露し、大いに話題となりました。
■無意識に「サザエさん」と比較される白物家電担当
●「ランドリエ」 中山美穂 (91年)
長くCMキャラクターを務めた岸本加世子からバトンを受け継ぎ、91年からは中山美穂が東芝の白物家電の顔役に。いつの時代も、主婦層に受けるキャスティングは困難を極めます。特に東芝の場合は、無意識に「サザエさん」と比較されてしまうのだから大変です。
■世界初のノートパソコンを発売したのは東芝
●「Dynabook」 鈴木亜久里(91年)
1989年、世界で初めてのノートパソコン「Dynabook(ダイナブック)」を発売したのも東芝です。“世界標準”をアピールするために白羽の矢が立ったのは、日本人で唯一表彰台に立ったことのあるF1ドライバー(当時)だった鈴木亜久里でした。東芝にしてみれば、「これが、世界の動き」でした。
●「RUPO」 唐沢寿明(92年)
パソコンが普及する前の80~90年代、ワープロ専用機はビジネスに欠かせないツールでした。実は1978年、世界初の日本語ワープロを開発したのも東芝です。CMで若手ビジネスマンを演じるのは、この年、ドラマ「愛という名のもとに」でブレイクした唐沢寿明。
■おなじみのラッパーも東芝ファミリーだった
●AVワンタッチユニット「コックピット(91年)
当時、CMに海外の大物ミュージシャンを起用することは、東芝に限らず日本の家電メーカーのトレンドでもありました。東芝はAV機器「コックピット」のCMに人気絶頂のM.C.ハマーを起用。ほかにもごくわずかな期間ですが、ヴァン・ヘイレンのデビッド・リー・ロスも、テレビやビデオデッキのCMに起用しています。
■ユーミン、長渕、安室ちゃんも、、ミリオンヒット連発の東芝EMI
●DAWN PURPLE 松任谷由実(91年)
電化製品、OA機器だけではありません。
傘下のレコード会社、東芝EMI(現・ユニバーサルミュージック)では当時、ミリオンヒットが連発されていました。代表的なアーティストは、ユーミンこと松任谷由実。1990年11月に発売したアルバム「天国のドア」は、1991年1月に邦楽史上初の200万枚の出荷を達成する大ヒットを記録。1年後の1991年11月に発売されたこの「DAWN PURPLE」でも、発売直後の1991年12月2日付オリコンチャートにて史上初の “初動ミリオン” を達成しています。
●長渕剛「しゃぼん玉」(91年)
もう一人の大物は長渕剛。
この年、自ら主演を務めたドラマ「しゃぼん玉」の主題歌が「とんぼ」(1988年)以来2作目のミリオンセラーを記録しています。当時の長渕は、『ザ・テレビジョン』の表紙撮影で恒例となっているレモンの手持ちを史上初めて拒否できるほどの勢いでした。
●SUPER MONKEY’S「恋のキュート・ビート/ミスターU.S.A.」 (92年)
何を隠そう、あの安室奈美恵もデビュー当時は東芝EMI所属でした(95年にエイベックスへ移籍)。ほかにも氷室京介やCOMPLEXといった大物アーティストや、ウルフルズ、大黒摩季ら、のちのミリオンセラーシンガーたちが在籍していました。
■都市対抗、日本選手権でも優勝、ドラフト1位も輩出!
●プロ野球ドラフト会議(92年)
現在でも社会人野球の強豪として知られる東芝野球部は、1991年の都市対抗、1992年の日本選手権で優勝を果たしています。松井秀喜(のちに巨人)、伊藤智仁(のちにヤクルト)らがプロ入りした1992年のドラフト会議では、左腕の杉山賢人投手が、西武ライオンズから単独1位指名。
他にもコンサドーレ札幌の前身となった東芝堀川町サッカー部は1992年、第1回ジャパンフットボールリーグ1部に参加。ラグビー部は第45回全国社会人大会で準優勝という好成績を収めています。
企業スポーツ華やかなりし時代。
当時の社員の皆さんは鼻高々だったことでしょう。
まとめ:あなたが経営者だったら…?
原発事業の失敗により、白物家電、医療機器のみならず“虎の子”のフラッシュメモリ事業まで手放さざるを得なくなった東芝。
が、いっぽうで90~92年ごろの東芝は、ノートパソコンを世界で初めて開発し、当代きってのスターを次から次へとCMに起用していた会社でした。傘下のレコード会社ではユーミンが毎年のようにミリオンヒットを連発し、野球部はドラフト1位指名選手も輩出。多くの社員やその家族にとって誇らしい会社だったことは想像に難くありません。
あなたが当時、東芝の経営者だったら、30年後に評価される判断を下せる自信、ありますか?
今日は、この曲で失礼します。1988年、東芝EMIから発売されなかったアルバム「Covers」から、RCサクセションで「サマータイム・ブルース」。
(バブル時代研究家 DJGB)