【約50年前の茨城】飛行機と自転車が接触事故?危険すぎる射爆場の実態

2017/3/7 21:11 服部淳 服部淳


どうも服部です。昭和の映像を紐解いていくシリーズ、今回は茨城県のYouTubeチャンネル「なつかし・いばらき」にて公開されている「茨城県映画『水戸射爆場』(1970年(昭和45年度)制作)」というタイトルをピックアップしました。タイトル文字に何か訴えかけるものを感じます。
※動画はページ下部にあります。


有刺鉄線越しに映し出される小屋。


その小屋の中では、米空軍のロゴの付いたジャケットを着た男性が、通信機で合図を出しているようです。




すると、戦闘機が向かって飛んできます。映像のナレーションによると「F-4C ファントム」だそうです。1960年(昭和35年)に米軍で運用開始となり、航空自衛隊などでは現在でも現役の、息の長い戦闘機です。


標的のような布が映ると、爆音とともに砂埃が舞い上がります。

この映像のタイトルである「水戸射爆場」とは、太平洋戦争終了後、旧日本陸軍水戸飛行場を、米空軍が爆弾投下訓練などのために接収していた用地のこと。正式には「水戸対地射爆撃場」。




冒頭から2分51秒ぐらいまでの映像は、1970年(昭和45年)の大晦日、「水戸射爆場」での最終演習が行われた日の模様でした。爆弾の残骸や穴ぼこだらけの地面が、演習の激しさを物語っています。

そして、この射爆場がなぜ、どのようにして使用停止に至ったのかが、この映像の本題となります。


「模擬爆弾による農作物の被害」「ジェット機墜落による原野被害」「模擬爆弾による校庭被害」など、「水戸射爆場」周辺で起きた事故の一覧が映し出されています。ナレーションいわく、周辺の町村を含めたエリアで起きた事故は257件あったそうです。


こちらは破壊した自動車。ひたちなか市が公開している勝田市(合併により現・ひたちなか市)の市報によると、1963年(昭和38年)当時(沖縄返還前)、日本にあった米空軍の射爆撃場は水戸、芦屋(福岡県岡垣町)、三沢の3ヵ所だったが、芦屋での事故件数は43件だったのに対し、水戸は122件と3倍の事故が発生していたそう。


事故を起こしたパイロットでしょうか。模擬弾を持って呆然としているように見えます。前出の市報によると、事故の多さは「射爆撃場が狭すぎて、射爆の演習地として不適である」ことと、周辺の人口が多いことを挙げています。


標的は陸上だけでなく、海上にも設置されていました。このあたりは県内有数の絶好の漁場だったようですが、それを目の前にして操業できないでいたようです。


演習は射爆だけでなく、大型輸送機から物資透過や降下訓練なども行われていたようです。スレスレを飛行機が飛んでいる建物は…




小学校でした。撮影当時は防音設備は施されていたようですが、同校の沿革を見てみると、全校舎の防音工事が終わったのは昭和32年だったようで、10年以上は防音設備なしの状態でした。


それでもまったく騒音が聞こえないわけではないのでしょう、先生は飛行機が通り過ぎていく間を待っているようでもあります。


こちらは同校の校庭。はっきりと聞き取れませんが、子供たちは飛行機が通過していった時の怖かった体験を話しているようです。


このような危険と隣り合わせの状況の中、1957年(昭和32年)8月に悽惨な事故(というか事件)が起きます。自転車で走行中の母子に低空飛行をしていた飛行機が接触し、63歳の母親が即死、当時24歳だった息子は重症を負いました。


新聞見出しに「明らかに過失」とあるように、この事件を起こしたパイロットは、繰り返し低空飛行をして、人々を驚かせていたといわれています。




この事件をきっかけに、それまで耐えていた市民らは射爆場への返還運動を始めます。


射爆場周辺住民による運動で始まりますが、やがて県ぐるみに広がっていき…、


当時の岩上二郎茨城県知事を先頭に国や米軍司令部などに陳情を繰り返すなどして、


ようやく、事件から14年後の1970年に演習停止に結びついたのでした。画像は、標的を下ろしているところです。


明けて1971年から、米軍の通信施設などの撤去作業が始まり…、




水戸射爆場の兵士たちは、ヘリコプターに乗り込み、別の基地へ転属となりました。


射爆場停止後の住民たちへのインタビューでは、みなさん口を揃えて「音が静かになった」と答えています。


海に置かれていた標的は、自衛隊員の手により撤去されました。


漁場を取り戻した近隣漁師さんたちは、生活の立て直しとして海苔やアワビの養殖を始めてみることにしたようです。映像のナレーションでは触れていませんが、漁業組合の方のインタビュー内容から、射爆場が停止になったことで補償金がなくなり、その分を特産品などを作って埋めていく必要があるようです。


こちらの漁師さんは、ご自身で自宅を改造して、漁の合間に民宿を始めるのだそうです。「生活するのに容易ではない」と述べられているように、射爆場がなくなったからすべてがハッピーエンドという訳ではないようです。


演習は停止されたが、1157ヘクタールある射爆場はまだ県民の手に取り戻したということではないという旨のナレーションをもって、映像は終了します。その後、水戸射爆場は1973年3月15日に日本政府に返還され、現在は国営ひたち海浜公園の敷地になっています。



映像は18分弱ほどありますが、エンジン音や爆音を実際に耳にすることで、いかに当時の周辺住民たちが恐怖の中に生活していたかが、より実感できるかと思います。ぜひ一度ご高覧ください。

(服部淳@編集ライター、脚本家)

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【動画】「茨城県映画『水戸射爆場』(1970年(昭和45年度)制作)」