昭和歌謡史の謎、菊池桃子が率いたロックバンド「ラ・ムー」の【うしろの2人】をふりかえる
誰にでも「2度と会わないだろうけど、忘れられない人」って、いますよね。先日のこのニュースを見て、私の脳裏にもそんな「忘れられない人」がよみがえりました。
菊池桃子 1億総活躍の国民会議参加に「偏らず意見交換したい」(gooニュース)
菊池桃子といえば、80年代を代表するトップアイドルの一人。1984年に「青春のいじわる」でデビューすると、その愛らしい表情とささやくような歌声で、瞬く間にスターダムを駆け上がりました。が、今回ふりかえるのはアイドルとしての彼女ではありません。
バブル時代、人々に鮮烈な記憶を残した伝説のロックバンド、ラ・ムー。そのリードボーカルとしてのモモコと、彼女を支えた二人の女性コーラスです。ひかえめでピュアな雰囲気が魅力だったアイドルが、唐突にバンドメンバーを従えて不思議なダンスで“ロック”を標榜しはじめたのだから、そりゃもう世間は戸惑いました。
●1988年2月24日 ファーストシングル「愛は心の仕事です」
■「モモコ、アイドル辞めるってよ」
1988年2月17日、菊池桃子は、今は取り壊されてしまったバブルの象徴“赤プリ”こと赤坂プリンスホテルで単独記者会見を開き、ラ・ムー結成を発表します。モモコ、このとき19歳。たしかにアイドル歌手としては曲がり角を迎えていました。前年には戸板女子短大に進学し、女優としての仕事が増えたいっぽうで、1985年の「卒業-GRADUATION-」以来7作続いていたオリコンシングルチャート1位の記録は途絶えていました。歌番組では光GENJI旋風が吹き荒れ、解散したおニャン子クラブからは工藤静香がソロデビュー。菊池とは正反対の不良っぽさで人気を確立した中山美穂に加え、「スケバン刑事」出身の南野陽子、浅香唯らが台頭していた頃です。
「愛は心の仕事です」はオリコン初登場9位、ダイドーのCMソングとしても長く使われました。が、キャッチコピーはあくまでも“モモコの瓶ジュース”。ラ・ムーの気配は皆無です。
●1988年 ダイドー ジュース100
■彼女たちは誰なのか?そしてラ・ムーとは結局なんだったのか?
今でこそフュージョン、R&B、ファンク、シティポップといったジャンル名が思い浮かびますが、当時小学生のDJGBが覚えたのは、メンバーたちが自称していた“ロック”への強烈な違和感だけ。独特すぎる曲名や歌詞の世界観が、それに拍車をかけます。学研の超科学雑誌『ムー』の愛読者でもあったDJGBにすれば、ムー大陸を治めた太陽神の化身、帝王ラ・ムーを由来とするバンド名も、いよいよ謎を深めるばかりです。
●1988年6月8日 セカンドシングル「少年は天使を殺す」
モモコの繊細なボーカルを支えたのは、2人の実力派シンガー、ロザリン・キール(左)と、ダリル・ホールデン(右)でした。ふくよかなロザリンと、背の高いダリルに挟まれると、色白できゃしゃなモモコがますます際立ちます。なぜ二人がこのバンドに加わったのか、その経緯は定かではありませんが、この3人の歌声とダンスがラ・ムーの摩訶不思議な魅力の源泉であったことは確かです。
左:ロザリン・キール(Rosaiyu Renee Keel / Rosalyn Keel)
パワフルな歌唱と笑顔が印象的。のちに佐野元春や中西圭三らの楽曲や、武田真治のファーストツアーにもコーラスとして参加するなど、日米の音楽業界で活躍されました。
右:ダレル・ホールデン(Darelle Foster Holden)
現在では米国に戻り、ネバダ州を拠点にジャズシンガーとして活躍中のご様子。彼女のマイスペースでは、ソロシンガーとしての歌声も楽しめます。
ちなみにラ・ムーのほかのメンバーは以下のみなさん。
松浦義和(キーボード)
…もともとフュージョンバンドPRISMなどで活躍していた松浦氏。1987年11月、菊池桃子が所属していた事務所トライアングルプロダクションの社長、藤田浩一氏に「新しくロックグループを作りたいが、誰かボーカルを探している」と相談したところ、藤田氏が「うちの桃子はどうだ」と応じたことから、ラ・ムーのプロジェクトが始まったそう。現在はソルフェ音楽専門学院の学院長というお立場。ブログでもそのころの写真やエピソードが紹介されています。
中西望(ドラムス)
…現在は故郷の埼玉県朝霞市にて「あさかドラム教室」を主宰。あのラ・ムーのドラマーにあなたも直接指導してもらえる!
勝守理(ギター)
…ラ・ムー終了後は作曲家、ギタリスト、音楽プロデューサーとして活躍するほか、TSM東京スクールオブミュージック専門学校の講師も務めていらっしゃいます。公式サイトはこちら。
吉岡誠司(ベース)
…現在もベーシストとして、浅香唯をはじめ様々なアーティストのライブやレコーディング等でご活躍中。
■ツアーもキャンセル、解散危機、そして伝説へ…
●1988年7月27日 サードシングル「TOKYO野蛮人」
ラ・ムーは1988年、シングル3枚、アルバム1枚をリリースしましたが、オリコンチャートでは「少年は天使を殺す」の4位が最高。セールス的にアイドル時代を上回ることはできず、アルバム発売後の秋に企画されていたツアーも実現しませんでした。1989年の年明けには「うしろの二人」のうちの一人(おそらくダリル?)がすでに米国に帰国したことも発覚、はやくも解散危機がささやかれます。
●1989年2月8日 ラストシングル「青山Killer物語」
1989年9月、菊池桃子の所属事務所移籍とともに、ラ・ムーは事実上の解散状態に。ベストアルバムが8cmCD1枚にギリギリに収録できるという稀有なディスコグラフィーに、DJGBは衝撃を受けたものです。
しばらく忘れられた存在だった菊池桃子が、セクシー路線という新境地でカムバックを果たすのは、およそ2年後のことでした。CMソングは、同じくこのCMで名をあげた福山雅治です。
●1990年 ビクター「ムービーごっこ」CM
■“アーティスト宣言”の時代
ロック=不良のやるもの、という価値観もまだ根強かった時代、モモコのロック転向は衝撃的でした。が、いっぽうでこの時代、アイドルの“アーティスト宣言”はちょっとした流行でもありました。その元祖ともいえる本田美奈子は1988年、女性ロックバンドMINAKO with WILD CATSを結成しアルバムを発表。菊池と同じく映画「パンツの穴」と雑誌『Momoco』出身の清純派アイドルだった島田奈美も、プリンスやマイケル・ジャクソンに影響を受けたダンスミュージックを発表し、既存の男性ファンから大いなる不興を買いました。のちに彼女たちの挑戦は再評価され、むしろ間違っていたのは世間のほうだったことが判明するのですが、ラ・ムーの登場も、そんな時代の流れのヒトコマだったのです。
菊池桃子さん、国民会議での活発な議論、期待しています! 今こそロザリンとダレルを呼び戻して、野蛮人あふれるTOKYOを、ソーシャルインクルージョンな社会にしてくださいね!
(バブル時代研究家 DJGB)