【まだまだあった】原爆投下後すぐの広島の貴重なカラー映像
どうも、服部です。前回の記事「【カラーで見る】原爆投下7ヵ月後の広島が衝撃的すぎる」に対して、多くの方に興味を持っていただけたようなので、今回も原爆投下後の広島を撮影したカラー映像を紹介したいと思います。
※動画はページ下部にあります。
今回は「WW II : RARE COLOR FILM : ATOMIC BOMBS(第二次大戦:貴重なカラー映像:原子爆弾)」とタイトル付けされた、実質6分30秒ほどの短い映像です。Youtubeで5万回再生ほど(前回記事の映像は93万回再生)されていますが、コメント欄には日本語の書き込みがほとんどないような状態です(記事執筆時)。
映像は広島の空撮から始まります。前回紹介した映像よりも、さらに鮮明なカラー映像のようです。映像には無音だった前回とは違い、英語のナレーションが入っています。
※以後の文中「 」でくくっている部分は、著者がナレーションを翻訳したものです。
「もしアメリカ軍が(日本への)本土侵攻をしていたら、100万人以上の犠牲者が出るだろうと軍事アナリストらは推測。それを受けて(終戦当時の米国大統領である)トルーマンは、代わりに原子爆弾を落とす決断をしたといわれています」
破壊された広島の映像の前に男性がワイプされます。広島に原爆を投下した飛行機『エノラ・ゲイ』のパイロットである、ポール・ティベッツ氏へのインタビュー音声が紹介されます。
ポール・ティベッツ氏「原爆を落としたら、我々は急上昇してできるだけ安全な位置に避難しました。その後、爆発による衝撃派が感じられたので、ミッションは成功したということで、広島を上空から眺めてみました。我々の真下には、期待された結果が出ているか、塵と破片の雲が上がり、広島の町が機能を失っているか、この目で確認してみました」
枯れ木が映し出されます。
奇跡的に被害がなかったのか、被爆後に新築されたのか、奇麗な建物が映っています。同じ場所でないと比較はできませんが、瓦礫の量が前回紹介の動画よりもだいぶ少なくなっているようにも思えます。
8時13分頃で止まっている時計が映ります。広島へ原爆が投下されたのは8時15分だったので、もともと少し時間が遅れていたのかもしれません。
「時計は、その瞬間のまま止まっています。そして命も。7万人という人が亡くなりました」
「広島は廃虚になりました。爆心地は約3982℃(華氏7200度)まで上がり、周辺にいた多くは蒸発してしまったほどの大変な破壊力でした。建物は形を残しているほうが稀です」
形を留めているビルの前を路面電車(広電)が走って行きます。
広電の背後には、傾いてしまっている信号機が見えます。「路面電車は、かつて広島という町だった荒れ果てた土地を寂しそうに走っています」
倒壊したままの建物の前を自転車に乗った男性が通ります。
場面は切り替わり、二人の子供を連れたお母さんらしきが映ります。「日本人たちは日々苦労を重ねて瓦礫の中での生活を送っています」
「瓦礫の中を探し回り使えそうな物を拾い集めます。壊れていないレンガでも出てきたらお宝級です」
漁船でしょうか、男性が出港準備をしているようです。「最先端を知る日本の科学者たちによって、この破壊力のある爆弾が何であるかが確認されているのにも関わらず、日本政府はまだ降伏を拒んでいたのです」。ナレーションは、広島に原爆が投下されているのにポツダム宣言を受け入れない日本に憤っています。
腰の曲がった高齢の方が歩いている横に『とうか山圓隆寺』と書いてある立て札があります。現在、広島市中区にある『とうかさん圓隆寺』のようです。「この日本人たちは、戦災を逃れた神社にお参りに来ているようです」とナレーションは伝えていますが、お寺でした。
仮設の本堂のような場所でお参りをしている人たちが映ります。女性ばかりです。涙をぬぐっている人もいます。
トラック、もしくはボンネットバスだったのでしょうか、変わり果ててしまった車の姿があります。「車に乗ってどこか遠くへ行くことは、ここでは現実的なことではありません」
牛車の列が映ります。たんまりと荷物を載せています。「今必要なのは、人や物を町に運ぶ交通手段です」
「原爆投下前と変わらないことといえば、昔ながらの青空市場です。少しでも価値があると思われる物は、どんな物でもここに持ち込まれて商品となるのです」。昔ながらの青空市場というか、マンガ「はだしのゲン」などにも登場する、広島の闇市なのかもしれません。
こちらでは、瓦礫の中から集めてきたのでしょうか、食器類を売っているようです。
こちらの女性は鍋料理を扱っているのでしょうか。「少しずつではありますが、広島はこれまでの日常を取り戻し始めているのです」
診療所のようです。松葉杖をついた女性が入っていきます。「爆心地から1.5km以上離れた場所になると、負傷者のほうが死者よりも多くなりますが、爆発での死を逃れられたといって、原爆というものはそれで安心だとは言い切れないのです」
「この目を負傷した女性は、まだついていたほうです。爆発による光を見つめてしまったために、目が溶けてしまった人もたくさんいたのです」
「この映像に映っている人たちは知るよしもなかったでしょうが、原爆投下以降、爆発自体で亡くなった人と放射能の影響を受けて亡くなった人の数の合計は、25万人に届かんとしているのです」。内容からして、ナレーションは原爆について一般によく知られるようになってから入れられたのかもしれません。
「外科手術の現場です。痛々しい描写ですが、放射能による火傷とは、このような酷い状態になるのです」
「こんなにも悲惨な状態を目の当たりにしても、日本の指導者たちはまだ降伏することを承諾しませんでした。その結果、2個目の原子爆弾が長崎に落とされることとなり、ようやく降伏を受け入れたのです」。承諾しなかったからすぐに2度目を落としたという論理には納得できませんが……。
最初の場面のように、原爆のキノコ雲をバックに、チャールズ・スウィーニー氏という長崎に原爆を投下したB29爆撃機のパイロットがワイプされ、原爆投下当日の様子を語ります。
「いつものように第一目標(福岡県小倉)と第二目標を定めて出撃しました。第一目標で3回ほど爆撃を試みたが(視界不良で)うまくいかず、第二目標である長崎に切り替えました。長崎に原爆を投下すると、ガソリンの残りが少なくなっていたこともあり、沖縄に緊急着陸をすることにしました」と、インタビューは終わります。
「3万5千人を超える犠牲者を出し、日本の指導者たちはようやく無条件降伏を受け入れ、第二次大戦は終了しました。そして、新たなる核の時代の幕開けとなったのです」と、締めのナレーションが入り映像は終了します。
いかがでしたか? 前回紹介した映像よりも、さらに突っ込んだ生活の場面なども垣間見られ、短いフィルムながらとても興味深い内容だったと思います。引き続き歴史の1ページを紐解いていきたいと思います。
(服部淳@編集ライター、脚本家) ‐ 服部淳の記事一覧
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動画「WW II : RARE COLOR FILM : ATOMIC BOMBS(第二次大戦:貴重なカラー映像:原子爆弾)」
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当「いまトピ」で発表してきたコラムに書き下ろし記事を加えた、服部淳の初著書となる『#平成生まれは知らない 昭和の常識』(イースト・プレス刊)が全国の書店およびインターネット書店で発売中です。
『#平成生まれは知らない 昭和の常識』(服部淳・著)
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