【昭和64年だけじゃない】1週間しかなかった昭和元年の出来事まとめ(再掲)
※過去の記事を編集して再掲しています
どうも服部です。「昭和の日」目前の4月22日頃から、ツイッター界隈で盛り上がり始めたこちらの話題をご存じでしょうか。
『意外な事実!わずか1週間の「昭和64年」が存在したらしい』という記事(記事自体は2015年の1月に作成されています)がツイートされると、逆に昭和64年の存在を知らない層がいることに驚きを感じた人たちの間で大盛り上がりに。
中でも「昭和64年が7日間で終わったのは常識だと思ってた」とコメントを付けた上掲のツイートは、5000を超えるリツイート数となりました(記事執筆時点)。
この盛り上がりと共に、ひそかに話題になってきたのが、「昭和最後の年である昭和64年も1週間だったが、昭和元年も1週間だった」というトリビアでした。
ということで、昭和時代をさまざまな形で振り返っていくシリーズ記事、「昭和の日」に配信となる今回は、大正時代が昭和に切り替わる「その時」と、昭和64年と同様に短期間しかなかった昭和元年の出来事を取り上げたいと思います。
こちらは大正時代最後の年である、大正15年(1926年)12月22年の朝日新聞夕刊の一面です。「聖上陛下御容體(容体)」の見出しの左には、大正天皇の数時間毎の体温・脈拍数・呼吸数や、御食事内容が詳細に記されています。ちなみに、聖上とは天皇の敬称です。
昭和育ちの方なら記憶にあるかと思いますが、昭和天皇が崩御される前の数ヵ月は、天皇のご容態がどうであるかの報道が連日されていましたが、その報道態勢は、大正末期でも同じだったようです。
一方で、その2日後である大正15年12月24日の新聞には、「大盛況!!」というデカデカとした見出しの、「キング」や「少年倶楽部」など当時の人気雑誌を擁する大日本雄辯會講談社(現・講談社)の全面広告も出ていました。昭和末期なら「不謹慎」と批判されそうなテイストです。
そしていよいよ、12月25日、朝日新聞から「聖上御危篤」の号外が出ます。「今晩1時15分」とあるので、深夜のことです。
同日の新聞一面です。大正天皇は大正15年12月25日午前1時25分に崩御されました。御危篤を知らせた号外に記されていた時刻の10分後のことです。同上段左端には、「新帝踐祚」と、同日午前3時15分に昭和天皇が天皇の位を受け継がれ、「剣璽渡御の儀」が行われたという宮内省(現・宮内庁)発表が掲載されています。
再び同日に出された号外です。「昭和」と改元したという内容で、号外の日付も昭和元年12月25日と、元号が昭和に変わっています。12月25日は大正と昭和と2つの元号が混在していたのです。
昭和から平成に改元された際には、昭和天皇が崩御された昭和64年1月7日に政令が出され、翌日より改元すると定められたため、1月7日までが昭和、1月8日からが平成とくっきり分かれています。
12月27日には、大正天皇が崩御された葉山の御用邸(神奈川県)より、昭和天皇・皇后両陛下が東京に戻られます。新聞の写真は、東京駅に御着された様子を捉えたもの。
最後は昭和元年12月31日の朝日新聞から。宮中大奥のお局制度を廃止すると伝えています。徳川幕府の大奥は、映画やドラマ、漫画などにたびたび登場するためご存じの方も多いでしょうが、皇室にも古代から存在し、明治時代までは最高位である「典侍」が側室の役割も担っていたといいます。
大正天皇は一妻一夫制を実施したため、側室の役割は明治で終わっていましたが、生活の簡素化を求められる昭和天皇は制度自体を廃止にされます。ただし、皇太后付きの女官だけは、皇太后が崩御される翌年の1952年(昭和27年)まで存続しました。
以上、大正時代の終焉と昭和時代の始まりを新聞の皇室関連記事に特化してまとめてみましたがいかがでしたか? 引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。
(服部淳@編集ライター、脚本家) ‐ 服部淳の記事一覧
どうも服部です。「昭和の日」目前の4月22日頃から、ツイッター界隈で盛り上がり始めたこちらの話題をご存じでしょうか。
昭和64年が存在していたらしいっていうNAVERのページがマジであって笑うんだが。昭和64年が7日間で終わったのは常識だと思ってたんですがね... pic.twitter.com/vHKOLS0jHf
— なゆほ (@Nayuho6866) 2016年4月23日
『意外な事実!わずか1週間の「昭和64年」が存在したらしい』という記事(記事自体は2015年の1月に作成されています)がツイートされると、逆に昭和64年の存在を知らない層がいることに驚きを感じた人たちの間で大盛り上がりに。
中でも「昭和64年が7日間で終わったのは常識だと思ってた」とコメントを付けた上掲のツイートは、5000を超えるリツイート数となりました(記事執筆時点)。
この盛り上がりと共に、ひそかに話題になってきたのが、「昭和最後の年である昭和64年も1週間だったが、昭和元年も1週間だった」というトリビアでした。
昭和64年は1月7日で終わってるから7日しかない! レア! と思うかもしれませんが、昭和元年も12月25日からで、すぐに昭和二年になるので7日しかないレアなんですよ。
— 東吾 (@105_k5) 2016年4月23日
昭和元年はほぼ大正15年扱いで、昭和64年はほぼ平成元年扱いです。(どうでもいい)
ということで、昭和時代をさまざまな形で振り返っていくシリーズ記事、「昭和の日」に配信となる今回は、大正時代が昭和に切り替わる「その時」と、昭和64年と同様に短期間しかなかった昭和元年の出来事を取り上げたいと思います。
こちらは大正時代最後の年である、大正15年(1926年)12月22年の朝日新聞夕刊の一面です。「聖上陛下御容體(容体)」の見出しの左には、大正天皇の数時間毎の体温・脈拍数・呼吸数や、御食事内容が詳細に記されています。ちなみに、聖上とは天皇の敬称です。
昭和育ちの方なら記憶にあるかと思いますが、昭和天皇が崩御される前の数ヵ月は、天皇のご容態がどうであるかの報道が連日されていましたが、その報道態勢は、大正末期でも同じだったようです。
一方で、その2日後である大正15年12月24日の新聞には、「大盛況!!」というデカデカとした見出しの、「キング」や「少年倶楽部」など当時の人気雑誌を擁する大日本雄辯會講談社(現・講談社)の全面広告も出ていました。昭和末期なら「不謹慎」と批判されそうなテイストです。
そしていよいよ、12月25日、朝日新聞から「聖上御危篤」の号外が出ます。「今晩1時15分」とあるので、深夜のことです。
同日の新聞一面です。大正天皇は大正15年12月25日午前1時25分に崩御されました。御危篤を知らせた号外に記されていた時刻の10分後のことです。同上段左端には、「新帝踐祚」と、同日午前3時15分に昭和天皇が天皇の位を受け継がれ、「剣璽渡御の儀」が行われたという宮内省(現・宮内庁)発表が掲載されています。
再び同日に出された号外です。「昭和」と改元したという内容で、号外の日付も昭和元年12月25日と、元号が昭和に変わっています。12月25日は大正と昭和と2つの元号が混在していたのです。
昭和から平成に改元された際には、昭和天皇が崩御された昭和64年1月7日に政令が出され、翌日より改元すると定められたため、1月7日までが昭和、1月8日からが平成とくっきり分かれています。
12月27日には、大正天皇が崩御された葉山の御用邸(神奈川県)より、昭和天皇・皇后両陛下が東京に戻られます。新聞の写真は、東京駅に御着された様子を捉えたもの。
最後は昭和元年12月31日の朝日新聞から。宮中大奥のお局制度を廃止すると伝えています。徳川幕府の大奥は、映画やドラマ、漫画などにたびたび登場するためご存じの方も多いでしょうが、皇室にも古代から存在し、明治時代までは最高位である「典侍」が側室の役割も担っていたといいます。
大正天皇は一妻一夫制を実施したため、側室の役割は明治で終わっていましたが、生活の簡素化を求められる昭和天皇は制度自体を廃止にされます。ただし、皇太后付きの女官だけは、皇太后が崩御される翌年の1952年(昭和27年)まで存続しました。
以上、大正時代の終焉と昭和時代の始まりを新聞の皇室関連記事に特化してまとめてみましたがいかがでしたか? 引き続き、歴史の1ページを紐解いていければと思います。
(服部淳@編集ライター、脚本家) ‐ 服部淳の記事一覧