これは必見!圧倒的内容の「民藝の100年」展
子どもの頃はいまいちピンとこなかったけれど、大人になって「ああ、良いなあ」とじんわり思う「物」、ありませんか?
素朴で生活になじむ器、よく手入れされた家具──頼もしさや味わいが宿るそれらを見ると、愛おしい気持ちが湧いてきます。
東京国立近代美術館で開幕した柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」は、まさにそういった物たちがずらりと並ぶ展覧会。でも、ただ並んでいるだけではありません。これらは日本で興った「民藝」の思想、運動、歴史を物語るために鎮座しているのです。
展覧会のタイトルにもなっている「民藝」という言葉。
これは「民衆的工芸」を略した言葉であり、宗教哲学者である柳宗悦(やなぎ・むねよし)が、陶芸家の河井寬次郎や富本憲吉、濱田庄司と唱えた「新しい美の概念」を指します。その基盤には、一般の民衆が使う日常の生活道具の中に「美術」とは異なる手仕事の美しさを発見し、それを通して生活や社会を豊かなものにしていこうという考えがありました。
工芸を通じて生活や社会を美しく豊かなものに底上げしていくと言えば、ウィリアム・モリスの提唱した「アーツ・アンド・クラフツ運動」を連想しますが、まさに民藝はアーツ・アンド・クラフツ運動に影響を受けています。
さて、本展のチラシには面白い言葉が書かれています。
“近代美術館は、その名称が標榜してゐる如く、「近代」に主眼が置かれる。民藝館の方は、展示する品物に、別に「近代」を標榜しない。”
これは東京国立近代美術館が開館(1952年)してまもない頃、柳らが開設した日本民藝館と比較して、晩年の柳が投げかけた批判文です。
そう、東京⇔地方、官⇔民など、「民藝」の姿勢と「東京国立近代美術館」の存在は真逆の立場。この展覧会は柳の痛烈な批判に対し、時を超えて東京国立近代美術館から繰り出された現在の渾身のアンサーでもあるのです。
展覧会は柳の活動を中心に、日本で起こった民藝運動の軌跡を追う形で展開されています。
1910年代前半、千葉県我孫子市に居を構えた柳宗悦は、そこで生涯の盟友となるバーナード・リーチをはじめ、様々な人と交流を持ちました。ここでの活動や繋がりが、しだいに民藝運動へと発展していきます。
本格的に民藝の活動が高まったのは1920年頃からです。
日本国内での旅行ブームに則り、柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎ら「民藝」の創設メンバーは、国内外を精力的に移動し、江戸から明治期にかけての布や朝鮮の工芸品などといった民藝を発掘・蒐集しました。
彼らは今までその土地の人々の間でしか目に留められなかった、謂わば生活品としての役割しかなかったものの中に美を見出し、新しい価値を付していったのです。
次第にこうした民藝へのアプローチは、日本の近代化に対して矛盾を感じている人々にとって「都市⇔郷土」という概念を成立させ、地方の伝統的な生活文化を再評価する動きとして、都市生活者の趣味という側面を含んで活発化していきました。
つまり、郷土的な趣のあるものが一種のライフスタイルやファッションとして認知されるようになったのです。
さらに民藝運動は「上加茂民藝協團」を結成し、ギルド(制作者集団)による新作民藝の創造と、生活の芸術化という理想を追い求めていきました。
本展で私が一番ぐっときたのが、編集することで民藝の魅力を伝えた彼らの仕事ぶりです。
日常的にSNSを使っている方は、何かを発信する際に「どうしたらこの魅力や感動を他者に伝えられるか」に苦心することもあるのではないでしょうか。
この章では「推したいもの」を最高に「映え」る状態で伝える柳の卓越したセンスや、その手腕について述べています。
柳らは文章や画像で民藝の魅力を伝えるだけでなく、自ら身にまとう物にもそれらを採り入れたり、各地の民藝品を販売するセレクトショップを作るなど、異なるアプローチで人々にその良さを紹介していきました。1936年に開館した日本民藝館は、その最たるものだったのではないでしょうか。
出版、流通(ショップ)、美術館という三本柱を「民藝樹」になぞらえ、ローカルネットワークとして民藝運動のメディア戦略を展開していったのです。
最初は江戸時代に作られた民藝品の蒐集から始まった民藝運動は、しだいに「現行品」の調査へとシフトされていきます。
柳らは現代における手仕事の保存と育成と産業化という目標に向かって活動を開始したのです。こういった流れは現代の伝統工芸保存の動きに通じますね。
芹沢銈介に依頼し、日本中に現在進行形で存在する民藝を表した《日本民藝地図(現在之日本民藝)》は圧巻のひと言。会場ではここから各地の民藝が怒涛のごとく展開されます。
この時期はちょうど戦争が起こった時代と重なりますが、柳は戦時下であるからこそ偏狭なナショナリズムに陥ることを戒めています。
柳の著書である『手仕事の日本』(靖文社)の中で、彼は「吾々はもつと日本を見直さねばなりません。…(中略)…ただ一つここで注意したいのは、吾々が固有のものを尊ぶといふことは、他の国のものを謗るとか侮るとかいふ意味が伴つてはなりません」と記しました。
今から100年以内のできごとなのでさほど昔のことではありませんが、現代に生きる我々も肝に銘じるべきことを、すでに柳はここで説いています。
戦後、長男・宗理も加わり、民藝運動はインダストリアル・デザインも踏まえた新しいライフスタイルを展開していきました。スカンジナビア・デザインを積極的に紹介するなど、今の日本における北欧スタイルの原点も垣間見えます。
また、戦争で悪化した印象を塗り替えるため、「独特の伝統があり、かつモダンな日本」というイメージを対外的に発信するようになります。本展のキャッチコピーである「ローカルであり、モダンである」は、柳が目指した民藝の姿勢と東京国立近代美術館の立場を総括した言葉であると同時に、戦後日本が世界に向けて発信したイメージでもあるのでしょう。
1961年、柳が歿したあとも民藝の運動は続き、新しいライフスタイルモデルのひとつとして人々に浸透していきました。彼らの考える運動は景観保全にも及んでおり、鳥取砂丘が今の姿で残されているのも、実はその活動によるものなのです。
ざっくりと民藝の流れについて書きましたが、やはり実際に物を見てこそ歴史や運動の内容がわかるというもの。会場には「これでもか!」という莫大な量の作品や資料が陳列されているので、時間と体力に余裕をもって挑んでください。
本展のもうひとつの魅力は、なんといっても特設ショップの存在。
展覧会オリジナルグッズに加え、展覧会開催期間中D&DEPARTMENTの特設ショップや、2週ごとに出店される各地の民藝店のポップアップストアが、選りすぐりの商品を展開しています。
展覧会のテンションをそのままに欲望を満たせる空間となっているという親切設計。お財布をしっかり持って入場しましょう!
そしてぜひ興奮が冷めやらぬうちに、駒場にある日本民藝館へ足を運んでみてください。 会場にも同館の収蔵品が展示されていますが、日本民藝館の持つ独特な空間はまた格別です。可能であれば、柳の自宅であった「西館」の公開日に訪れてみてくださいね。
加えて京都の河井寬次郎記念館もおすすめ。本当に素晴らしすぎて帰れなくなります!
民藝が提唱されてから約100年経った現在でも、その思想は色褪せることはありません。
良質な物を使って生活を豊かにデザインしていこうという想いは、消費社会を一周した現代の人々にも通じるものがあるからかもしれません。
「民藝の100年」は、民藝の持つ魅力やその歴史に触れられるだけでなく、持続可能な社会に向けて我々は何をすべきなのか、生活とは何か、また民族とは何なのかなど、まさに今考えるべきことのヒントが詰まった展覧会です。 とは言っても肩に力を入れる必要はありません。まずは柳たちが夢中になった、手仕事の中に潜む美しさを見に行ってみませんか。
素朴で生活になじむ器、よく手入れされた家具──頼もしさや味わいが宿るそれらを見ると、愛おしい気持ちが湧いてきます。
ポスタービジュアル▲《羽広鉄瓶》羽前山形(山形県) 1934 年頃 (日本民藝館)
東京国立近代美術館で開幕した柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」は、まさにそういった物たちがずらりと並ぶ展覧会。でも、ただ並んでいるだけではありません。これらは日本で興った「民藝」の思想、運動、歴史を物語るために鎮座しているのです。
民藝という言葉 その根底にあるもの
▲ホームスパンを着る柳宗悦 日本民藝館にて 1948 年2月 写真提供:日本民藝館
展覧会のタイトルにもなっている「民藝」という言葉。
これは「民衆的工芸」を略した言葉であり、宗教哲学者である柳宗悦(やなぎ・むねよし)が、陶芸家の河井寬次郎や富本憲吉、濱田庄司と唱えた「新しい美の概念」を指します。その基盤には、一般の民衆が使う日常の生活道具の中に「美術」とは異なる手仕事の美しさを発見し、それを通して生活や社会を豊かなものにしていこうという考えがありました。
工芸を通じて生活や社会を美しく豊かなものに底上げしていくと言えば、ウィリアム・モリスの提唱した「アーツ・アンド・クラフツ運動」を連想しますが、まさに民藝はアーツ・アンド・クラフツ運動に影響を受けています。
さて、本展のチラシには面白い言葉が書かれています。
▲本展チラシより
“近代美術館は、その名称が標榜してゐる如く、「近代」に主眼が置かれる。民藝館の方は、展示する品物に、別に「近代」を標榜しない。”
これは東京国立近代美術館が開館(1952年)してまもない頃、柳らが開設した日本民藝館と比較して、晩年の柳が投げかけた批判文です。
そう、東京⇔地方、官⇔民など、「民藝」の姿勢と「東京国立近代美術館」の存在は真逆の立場。この展覧会は柳の痛烈な批判に対し、時を超えて東京国立近代美術館から繰り出された現在の渾身のアンサーでもあるのです。
蒐集から創造へ
展覧会は柳の活動を中心に、日本で起こった民藝運動の軌跡を追う形で展開されています。
1910年代前半、千葉県我孫子市に居を構えた柳宗悦は、そこで生涯の盟友となるバーナード・リーチをはじめ、様々な人と交流を持ちました。ここでの活動や繋がりが、しだいに民藝運動へと発展していきます。
▲『白樺』第13巻第9号[別冊「李朝陶磁器の紹介」、表紙:岸田劉生]1922年9月(日本民藝館) 柳は雑誌『白樺』にて蒐集した美術品の紹介などをしていました
本格的に民藝の活動が高まったのは1920年頃からです。
日本国内での旅行ブームに則り、柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎ら「民藝」の創設メンバーは、国内外を精力的に移動し、江戸から明治期にかけての布や朝鮮の工芸品などといった民藝を発掘・蒐集しました。
彼らは今までその土地の人々の間でしか目に留められなかった、謂わば生活品としての役割しかなかったものの中に美を見出し、新しい価値を付していったのです。
▲燭台 江戸時代 19世紀(日本民藝館)
▲会場風景 中央は 木喰五行《地蔵菩薩像》 1801年(日本民藝館) 柳が木喰仏との運命的な出会いを果たしたのもこの時期です。1924年に山梨の旧家で木喰上人が彫った仏像に衝撃を受けた柳は、その後数年にわたって国内を巡り、木喰仏についての調査研究を行いました。
次第にこうした民藝へのアプローチは、日本の近代化に対して矛盾を感じている人々にとって「都市⇔郷土」という概念を成立させ、地方の伝統的な生活文化を再評価する動きとして、都市生活者の趣味という側面を含んで活発化していきました。
つまり、郷土的な趣のあるものが一種のライフスタイルやファッションとして認知されるようになったのです。
さらに民藝運動は「上加茂民藝協團」を結成し、ギルド(制作者集団)による新作民藝の創造と、生活の芸術化という理想を追い求めていきました。
推し方が秀逸! 編集で伝える民藝の魅力
▲会場風景 『工藝』(国立新美術館)
本展で私が一番ぐっときたのが、編集することで民藝の魅力を伝えた彼らの仕事ぶりです。
日常的にSNSを使っている方は、何かを発信する際に「どうしたらこの魅力や感動を他者に伝えられるか」に苦心することもあるのではないでしょうか。
この章では「推したいもの」を最高に「映え」る状態で伝える柳の卓越したセンスや、その手腕について述べています。
▲会場風景 ツイードスーツ、ににぐりネクタイ、懐中時計提げ紐、竹製ショルダーバッグ(吉田璋也着用/個人蔵)「ににぐり」とは、屑繭で紡いだ糸のこと。
柳らは文章や画像で民藝の魅力を伝えるだけでなく、自ら身にまとう物にもそれらを採り入れたり、各地の民藝品を販売するセレクトショップを作るなど、異なるアプローチで人々にその良さを紹介していきました。1936年に開館した日本民藝館は、その最たるものだったのではないでしょうか。
出版、流通(ショップ)、美術館という三本柱を「民藝樹」になぞらえ、ローカルネットワークとして民藝運動のメディア戦略を展開していったのです。
▲民藝樹 『月刊民藝』創刊号 1939年4月 より
持続可能な民藝をつくる
最初は江戸時代に作られた民藝品の蒐集から始まった民藝運動は、しだいに「現行品」の調査へとシフトされていきます。
柳らは現代における手仕事の保存と育成と産業化という目標に向かって活動を開始したのです。こういった流れは現代の伝統工芸保存の動きに通じますね。
▲芹沢銈介《日本民藝地図(現在之日本民藝)》 1941年(日本民藝館)
芹沢銈介に依頼し、日本中に現在進行形で存在する民藝を表した《日本民藝地図(現在之日本民藝)》は圧巻のひと言。会場ではここから各地の民藝が怒涛のごとく展開されます。
この時期はちょうど戦争が起こった時代と重なりますが、柳は戦時下であるからこそ偏狭なナショナリズムに陥ることを戒めています。
柳の著書である『手仕事の日本』(靖文社)の中で、彼は「吾々はもつと日本を見直さねばなりません。…(中略)…ただ一つここで注意したいのは、吾々が固有のものを尊ぶといふことは、他の国のものを謗るとか侮るとかいふ意味が伴つてはなりません」と記しました。
今から100年以内のできごとなのでさほど昔のことではありませんが、現代に生きる我々も肝に銘じるべきことを、すでに柳はここで説いています。
▲会場風景 柳宗理デザインによる新しい民藝 (柳工業デザイン研究会/金沢美術工芸大学寄託、鳥取民藝美術館)
戦後、長男・宗理も加わり、民藝運動はインダストリアル・デザインも踏まえた新しいライフスタイルを展開していきました。スカンジナビア・デザインを積極的に紹介するなど、今の日本における北欧スタイルの原点も垣間見えます。
また、戦争で悪化した印象を塗り替えるため、「独特の伝統があり、かつモダンな日本」というイメージを対外的に発信するようになります。本展のキャッチコピーである「ローカルであり、モダンである」は、柳が目指した民藝の姿勢と東京国立近代美術館の立場を総括した言葉であると同時に、戦後日本が世界に向けて発信したイメージでもあるのでしょう。
▲芹沢銈介《柳宗悦像》 1962年頃(東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館)
1961年、柳が歿したあとも民藝の運動は続き、新しいライフスタイルモデルのひとつとして人々に浸透していきました。彼らの考える運動は景観保全にも及んでおり、鳥取砂丘が今の姿で残されているのも、実はその活動によるものなのです。
▲会場風景
ざっくりと民藝の流れについて書きましたが、やはり実際に物を見てこそ歴史や運動の内容がわかるというもの。会場には「これでもか!」という莫大な量の作品や資料が陳列されているので、時間と体力に余裕をもって挑んでください。
さらにもう一歩民藝に踏み込む
▲ショップ風景
本展のもうひとつの魅力は、なんといっても特設ショップの存在。
展覧会オリジナルグッズに加え、展覧会開催期間中D&DEPARTMENTの特設ショップや、2週ごとに出店される各地の民藝店のポップアップストアが、選りすぐりの商品を展開しています。
展覧会のテンションをそのままに欲望を満たせる空間となっているという親切設計。お財布をしっかり持って入場しましょう!
▲日本民藝館
そしてぜひ興奮が冷めやらぬうちに、駒場にある日本民藝館へ足を運んでみてください。 会場にも同館の収蔵品が展示されていますが、日本民藝館の持つ独特な空間はまた格別です。可能であれば、柳の自宅であった「西館」の公開日に訪れてみてくださいね。
加えて京都の河井寬次郎記念館もおすすめ。本当に素晴らしすぎて帰れなくなります!
民藝が提唱されてから約100年経った現在でも、その思想は色褪せることはありません。
良質な物を使って生活を豊かにデザインしていこうという想いは、消費社会を一周した現代の人々にも通じるものがあるからかもしれません。
「民藝の100年」は、民藝の持つ魅力やその歴史に触れられるだけでなく、持続可能な社会に向けて我々は何をすべきなのか、生活とは何か、また民族とは何なのかなど、まさに今考えるべきことのヒントが詰まった展覧会です。 とは言っても肩に力を入れる必要はありません。まずは柳たちが夢中になった、手仕事の中に潜む美しさを見に行ってみませんか。
柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年
会場:東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー、2F ギャラリー4
会期:2021年10月26日(火)~ 2022年2月13日(日)※会期中一部展示替えあり
休館日:月曜日 ただし2022年1月10日は開館、12月28日(火)~ 2022年1月1日(土)、1月11日(火)
会場時間:10:00-17:00(金・土曜は10:00-20:00)
特設サイト:https://mingei100.jp
会期:2021年10月26日(火)~ 2022年2月13日(日)※会期中一部展示替えあり
休館日:月曜日 ただし2022年1月10日は開館、12月28日(火)~ 2022年1月1日(土)、1月11日(火)
会場時間:10:00-17:00(金・土曜は10:00-20:00)
特設サイト:https://mingei100.jp