【銀塩写真で甦る】危機に瀕した世界遺産の街
アッサラーム・アライクム、いまトピアート部のyamasanです。
いきなりアラビア語のあいさつで始まりましたが、今回は、以前訪れた中東の国々の中でも特に印象的だった国のひとつ、イエメンの様子をお伝えしたいと思います。
イエメンの首都サヌアの北西約15kmにある岩山に囲まれた村
ワディ・ダハールのロックパレス。
長い間、南北に分かれて武力衝突が続いていたイエメンが統一されて、現在のイエメン共和国が成立したのが1990年5月のこと。
私がイエメンを訪れた1990年代半ばころは、現地の情勢も比較的安定して、世界遺産のサヌア旧市街やシバームの旧城壁都市をはじめとした観光地を巡る観光ツアーがちらほら出ている状況でした。
そのころはちょうどアラブ圏に興味をもちはじめてアラビア語を勉強していたので、迷わずイエメンを含むアラビア半島を巡るツアーに参加しましたが、今となってはイエメンに行くまたとないチャンスだったのかもしれません。
現在のイエメンは、外務省の危険情報によると、全土で政府と反政府勢力の衝突や、テロ・誘拐事件が発生していて、危険度は最も高いレベル4「退避勧告」なので、とても残念なことですが、たとえコロナが収まっても行かれるような状況ではありません。
世界文化遺産に登録されているサナア旧市街。街角からヤギの群れがこちらに向かって歩いてくるところでした。
レンガ造りの建物とアーチ状の窓が特徴です。
「煉瓦の摩天楼」と呼ばれているサナア旧市街は、例年の洪水で地盤がゆるくなっているのに加えて、内戦による空爆で深刻な損害を受けているため、2015年に「危機遺産リスト」に追加されました。
このままでは、この美しい街の景色が見られなくなるかもしれないのです。
幅2mほどの狭い軒先の店が連なる旧市街のスーク(市場)ではコブ牛が闊歩していました。
先ほどご紹介したワディ・ダハールのほかにもサナア近郊にはいくつもの観光スポットがあります。
そのうちの一つが、「砂漠の摩天楼」とも呼ばれているシバームの旧城壁都市。
シバームも内戦で破壊されるおそれがあるので「危機遺産リスト」に追加されています。
そしてもう一つが、サナアの東約120kmに位置する砂漠の町マーリブ。
マーリブまでの道中は当時もあまり治安がよくなかったので、私たち一行が分乗した車には警察の護衛の車が同行しました。
サナアを出てしばらくして、ドライブインのような店で車が停まるので、何かあったのかと一瞬ドキッとしたのですが、聞いてみたらドライバーさんたちが朝食を食べていなかったので腹ごしらえをするとのこと。
日本だと考えられないことですが、このゆるい時間の流れがとても心地よかったことをよく覚えています。
こちらは1980年代まで続いた南北イエメンの内戦で廃墟となったオールド・マーリブの市街地。
オールド・マリブ近くには、旧約聖書に登場するシバの女王ビルギスの宮殿跡とされる石柱が残っていますが、子どもたちのいい遊び場になっていました。
写真には写っていませんが、子どもたちは柱の間に両手両足を広げて器用にてっぺんまで登っていました。
サナアのホテルでの夕食のあとはジャンビーア・ダンスのショー。
イエメンの成年男性の多くは足首までの丈があるワンピースを着て、腰に巻いたベルトにジャンビーアという半月刀をさしています。
そんな刃物を普段から持ち歩いていて、喧嘩になったらこわいのでは、と思われるかもしれませんが、何があってもジャンビーアを抜かないのが成年男性としての我慢の見せどころなのです。
それでも私が見たところ、果物の皮をむいたり、太陽の光を反射させて車に合図を送るライト替わりにするなど、実用的に使っているようでした。
サナア旧市街のモスク
イエメンに行った時の写真を見ていると、現地のガイドさんや、スークで買い物をしたとき、片言のアラビア語に付き合ってくれたお店の人たちはじめ、親切にしてくれた人たちの顔が思い浮かんできます。
いつのことになるかわかりませんが、古代ギリシア人やローマ人から「アラビア・フェリックス」(幸福のアラビア)と呼ばれたイエメンに一日も早く平穏な日々が戻ってくることを願わずにはいられません。
それではまた、マアッ・サラ―マ(直訳すると「平和とともに」という意味です)!
(追 記)
1990年代なかごろはまだデジタルカメラが一般に普及していなかったので、手元に残っているのはフィルムカメラで撮影したネガとプリントした写真でした。
今ではフィルムのネガをデータ保存する便利なサービスがあるので、近くのフォトショップに依頼しましたが、長い年月が経過したネガは変色していて、当時の色合いを再現することはできませんでした。
大きなショックを受けたのですが、同じフォトショップに写真のスキャンを依頼して、どうにか「古い絵ハガキ」ぐらいに再現できたので、ようやくみなさまにお見せできることができた次第です。
いきなりアラビア語のあいさつで始まりましたが、今回は、以前訪れた中東の国々の中でも特に印象的だった国のひとつ、イエメンの様子をお伝えしたいと思います。
イエメンの首都サヌアの北西約15kmにある岩山に囲まれた村
ワディ・ダハールのロックパレス。
長い間、南北に分かれて武力衝突が続いていたイエメンが統一されて、現在のイエメン共和国が成立したのが1990年5月のこと。
私がイエメンを訪れた1990年代半ばころは、現地の情勢も比較的安定して、世界遺産のサヌア旧市街やシバームの旧城壁都市をはじめとした観光地を巡る観光ツアーがちらほら出ている状況でした。
そのころはちょうどアラブ圏に興味をもちはじめてアラビア語を勉強していたので、迷わずイエメンを含むアラビア半島を巡るツアーに参加しましたが、今となってはイエメンに行くまたとないチャンスだったのかもしれません。
現在のイエメンは、外務省の危険情報によると、全土で政府と反政府勢力の衝突や、テロ・誘拐事件が発生していて、危険度は最も高いレベル4「退避勧告」なので、とても残念なことですが、たとえコロナが収まっても行かれるような状況ではありません。
世界文化遺産に登録されているサナア旧市街。街角からヤギの群れがこちらに向かって歩いてくるところでした。
レンガ造りの建物とアーチ状の窓が特徴です。
「煉瓦の摩天楼」と呼ばれているサナア旧市街は、例年の洪水で地盤がゆるくなっているのに加えて、内戦による空爆で深刻な損害を受けているため、2015年に「危機遺産リスト」に追加されました。
このままでは、この美しい街の景色が見られなくなるかもしれないのです。
幅2mほどの狭い軒先の店が連なる旧市街のスーク(市場)ではコブ牛が闊歩していました。
先ほどご紹介したワディ・ダハールのほかにもサナア近郊にはいくつもの観光スポットがあります。
そのうちの一つが、「砂漠の摩天楼」とも呼ばれているシバームの旧城壁都市。
シバームも内戦で破壊されるおそれがあるので「危機遺産リスト」に追加されています。
そしてもう一つが、サナアの東約120kmに位置する砂漠の町マーリブ。
マーリブまでの道中は当時もあまり治安がよくなかったので、私たち一行が分乗した車には警察の護衛の車が同行しました。
サナアを出てしばらくして、ドライブインのような店で車が停まるので、何かあったのかと一瞬ドキッとしたのですが、聞いてみたらドライバーさんたちが朝食を食べていなかったので腹ごしらえをするとのこと。
日本だと考えられないことですが、このゆるい時間の流れがとても心地よかったことをよく覚えています。
こちらは1980年代まで続いた南北イエメンの内戦で廃墟となったオールド・マーリブの市街地。
オールド・マリブ近くには、旧約聖書に登場するシバの女王ビルギスの宮殿跡とされる石柱が残っていますが、子どもたちのいい遊び場になっていました。
写真には写っていませんが、子どもたちは柱の間に両手両足を広げて器用にてっぺんまで登っていました。
サナアのホテルでの夕食のあとはジャンビーア・ダンスのショー。
イエメンの成年男性の多くは足首までの丈があるワンピースを着て、腰に巻いたベルトにジャンビーアという半月刀をさしています。
そんな刃物を普段から持ち歩いていて、喧嘩になったらこわいのでは、と思われるかもしれませんが、何があってもジャンビーアを抜かないのが成年男性としての我慢の見せどころなのです。
それでも私が見たところ、果物の皮をむいたり、太陽の光を反射させて車に合図を送るライト替わりにするなど、実用的に使っているようでした。
サナア旧市街のモスク
イエメンに行った時の写真を見ていると、現地のガイドさんや、スークで買い物をしたとき、片言のアラビア語に付き合ってくれたお店の人たちはじめ、親切にしてくれた人たちの顔が思い浮かんできます。
いつのことになるかわかりませんが、古代ギリシア人やローマ人から「アラビア・フェリックス」(幸福のアラビア)と呼ばれたイエメンに一日も早く平穏な日々が戻ってくることを願わずにはいられません。
それではまた、マアッ・サラ―マ(直訳すると「平和とともに」という意味です)!
(追 記)
1990年代なかごろはまだデジタルカメラが一般に普及していなかったので、手元に残っているのはフィルムカメラで撮影したネガとプリントした写真でした。
今ではフィルムのネガをデータ保存する便利なサービスがあるので、近くのフォトショップに依頼しましたが、長い年月が経過したネガは変色していて、当時の色合いを再現することはできませんでした。
大きなショックを受けたのですが、同じフォトショップに写真のスキャンを依頼して、どうにか「古い絵ハガキ」ぐらいに再現できたので、ようやくみなさまにお見せできることができた次第です。