作られたアイヌ文化…「ファンシー絵みやげ」で振り返る木彫り熊(1/2)
お久しぶりです。平成元年あたりのカルチャーを発掘調査している山下メロと申します。80年代とも90年代とも違うその時代を、平成レトロとして愛好しております。
↑ライブ中に真剣にネットサーフィンしています。
当連載では、80年代から平成初期に流行した「ファンシー絵みやげ」から、当時の流行を紹介していきたいと思います。「ファンシー絵みやげ」とは80年代からバブル経済期~崩壊を挟んで90年代まで、日本の観光地で若者向けに売られていた、かわいいイラストが印刷された雑貨みやげのことです。
「ファンシー絵みやげ」については連載第一回をご覧ください。
■ アイヌ民族とイオマンテ
アイヌは、主に北海道をはじめとするオホーツク一帯に居住している民族です。江戸時代には渡島国(現在の北海道渡島半島南部)に成立した松前藩が蝦夷地との交易を独占したのち、明治時代に開拓・入植が進み、同化政策の中で日本の領土となり日本国民となりました。
↑阿寒湖温泉街にあるアイヌ民族だけのコタン(集落)の入り口。コタンコロカムイ(村の守り神)であるシマフクロウの巨大な木彫りがアーチに鎮座する。
日本各地、そして世界各地で売られている土産品の定番がその土地の伝統工芸品であるように、長く独自の文化を守ってきたアイヌの伝統もまた、北海道のおみやげに多く取り入れられています。
↑白老町のしらおいポロトコタン
北海道のお土産品として有名なのは、玄関やテレビの上に飾られる鮭をくわえた熊の木彫りの置き物ではないでしょうか。一見するとアイヌの伝統的な工芸品のように思いがちですが、実はそうではないのです。
↑スタンダードなのはこれを黒く塗ったものである
■ 熊狩りの殿様によるヨーロッパの「おみやげ」
尾張徳川家第19代当主で、マレー半島での虎狩りの経験から「虎狩りの殿様」と呼ばれた徳川義親は、北海道八雲村にあった徳川家の徳川開墾場への訪問の折りに熊狩りを行い「熊狩りの殿様」とも呼ばれました。
徳川開墾場は旧尾張藩士への士族授産のために開墾を行っていたが、義親は積極的に新技術の導入などを支援し、1921年から翌年までの欧州旅行の際にスイスで購入した木彫りの熊などの動物彫刻を「おみやげ」として持ち帰り、1923年に八雲村に渡しました。これは冬の農閑期に収入を得られる副業ができないかと考えてのことであり、この見本から熊の木彫りを作り、産業に発展していったとされています。
これが北海道全域に伝わり、元来の狩猟採集漁撈の生活ができなくなったアイヌの新たな仕事となったとも言われています。「おみやげ」が「おみやげ」を生む形で熊の木彫りは生まれました。
↑北海道各地の観光地に木彫りの商品を売る民芸品店ができ、こういったかわいいキタキツネの小さなキーホルダーなども作られた。
もともとアイヌは木の加工技術に優れていましたが、主に実用性のある道具や舟などを作っていました。そこへ文様などを彫刻するアイヌ細工などはありましたが、動物などの像を彫るという文化はなかったのです。
↑ピリカメノコ(美女)の横顔。こういったアイヌの民族衣装をモチーフにしたものも作られた。
話を熊の木彫りに戻しますと、アイヌにおいてヒグマは重要な動物であり、カムイが熊の姿を借りて人間界に来ているものとして神聖視していました。
動物を殺してカムイ(神)の元へ送るイオマンテと呼ばれる儀式がありますが、子熊から飼育したヒグマを屠るものが一番重要です。殺した後の毛皮や肉はカムイからの贈り物として利用します。
↑阿寒湖アイヌコタンの奥にある劇場「阿寒湖アイヌシアターイコロ」。人形劇イオマンテの火まつりや舞踊を上演している。こちらにもシマフクロウが鎮座。アイヌコタンにある喫茶ポロンノではアイヌ料理を食べることができる。